灰色の世界
途方もなく哀しい。私はときどき、そんな気持ちに襲われた。襲われる、と言う表現は正確ではない。身体の中が全て空っぽになって、そこに透明な哀しみだけが満ちる。そんな途方もない哀しさを感じる時があった。
読んでいた文庫本を閉じ、テーブルに置く。村上春樹『女のいない男たち』。カップの取っ手をつまんでソーサーから持ち上げ、コーヒーをひと口飲む。すると、温かいコーヒーが胸のあたりを降りていくのと同時に、それがやってきた。途方もない哀しさ。大切な物を失くしたとか、親しい人が亡くなったとか、何か特別悲しいことがあった訳ではない。ただ、途方もなく哀しい。
私は遠くを見るように、顔を上げる。店の扉が見えた。水色の木枠に、大きなガラス張りの扉。カフェの店名が反転して読める。そういえば、反転した文字から始まる話があったな。ミヒャエル・エンデ『はてしない物語』。
緑が揺れる。目の焦点を手前に合わせると、私と扉の間にあるシダの葉がさわさわと揺れていた。扉の隙間から風がはいってきているようだ。途方もなく哀しい。また遠くをぼんやりと眺める。ガラス扉の向こうは、薄曇りの灰色の世界だった。
隙間風を足元に感じながら、手帳をひらく。哀しみ、消えないなら、書いてみよう。ただそう思って、手帳にペンを走らせる。いま起こっている情景を、丁寧に、少しずつ。手帳の中の私が、また手帳をひらいて書き始める。このまま無限にループするだろうか。さすらい山の古老が、ファンタージエンの記録を語り始めた時のように。
私は軽く頭を振ってペンを置いた。手帳をとじ、コーヒーをひと口飲む。灰色の世界にちらりと目をやってから、文庫本をまた開いた。