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Cocktail: ダイキリ

こちらのツイートに敬意を込めて。

※うつ病を匂わせる描写があります。


午後八時。バイトからアパートに帰った私は、疲れ切っていた。途中のコンビニで買った弁当を電子レンジで温めるが、食欲がない。二口つまんで食べるのを諦めた。

薄暗いワンルームで独り、冷めていく弁当を眺めながら思う。もうダメかもしれない。何がダメなのかは分からない。でも、もうダメかもしれない、という考えばかりが頭を巡る。最近夜は毎日こうだ。

部屋にじっと座っているのが居たたまれなくなって、勢いで靴をはき外に出る。気が済むまで歩こう。

薄明かりの灯る住宅街を、頬に夜風を受けながら歩く。何がダメなんだろう。友達がいないわけではない。大学ではそれなりに楽しい時間を過ごしている。嫌味なお客さんはいるが、バイト先の人間関係も悪くない。それでも毎晩、暗い気持ちに襲われる。心療内科に行くべきかも何度か考えたが、近くの病院を探すことすらもしんどく感じた。

出来るだけ心を空っぽにしながら、無心で足を進める。大通り沿いを通り抜け、ひと気の少ない道を歩き、気付けば知らない町まで来ていた。ここはどこだろう、と足を止めると、急に疲れを感じる。どこかに座りたい。

見まわすと、少し先に一軒灯りのついている店があった。個人経営のバーのようだ。一杯だけ飲もう。そう思ってドアを開けた。

「いらっしゃい!お好きな席にどうぞ」
カウンター席四つとテーブル席二つだけの、こじんまりした店だった。南国風の飾り付けで、バーにしては照明が少し明るめだ。しまった、気分じゃないな…と後悔しつつ、今更出られないので一番手前のカウンター席に座る。

「何にします?」
バーテンダーに尋ねられる。何でもいいから甘いものが飲みたかった。
「カルーアミルクで」
「カルーアミルク、かしこまりました!」
バーテンダーが作業に入るのを見届けて、私はゆっくりと息を吐き出した。バイトの後にたくさん歩いたので、身体が疲弊していた。

「お客さん来て良かったなあ」
明るい声が聞こえる。店内には私とバーテンダー、そしてその声の主の三人しか居なかった。二席挟んで一番奥のカウンター席に座っているその人は、お洒落な茶色のズボンに派手な柄の白いTシャツ、そして蛍光黄色のボンボンがついたニット帽をかぶっていた。どこからどう見ても陽気な人だ。ああ、カルーアミルクを飲んだらすぐに出よう。

「おう。お客さん来たからお前あんまりうるさくするなよ?」
とバーテンダーが答える。
「わかってるよ」
と言いながら、彼は大きな口を開けて「わはは」と笑った。

「カルーアミルク、お待たせしました」
目の前にグラスが置かれる。
「ありがとうございます」
と小声で言って、すぐに一口飲んだ。甘いな、お酒の味だな、と思ったが、美味しいのかはよく分からなかった。

グラスを見つめながら、またぐるぐると考えてしまう。辛い出来事なんか無いはずなのに、何でこんなにしんどいんだろう。

彼とバーテンダーの会話が、耳に入ってくる。二人は友達のようで、
「あの時旅行で行った海でさ〜」とか「サークルで後輩だったあいつがさ〜」とか、いかにもきらきらした日々の話をしている。

私は思い出したように甘いお酒を飲む。どうしたら、あの人達のように楽しくて何の不安もない日々を送れるんだろうか。自分の右手が左手を握りしめているのに気づき、またゆっくりと息を吐き出した。

「なあ、ダイキリ作ってよ」
陽気な彼が言う。
「お前、もう結構飲んでるだろ。お酒強くないのに大丈夫か?」
「いいから、いいから」
心配そうなバーテンダーに、彼は笑顔を向ける。
「分かったよ。………はいよ」
カタン、とカウンターにグラスが置かれる音がした。

「お姉さん、良かったらこれ、飲みませんか?」
「えっ?」
急に話しかけられて、私はびっくりして顔を上げた。見ると、彼がグラスをこちらに差し出している。少し黄色がかった透明なお酒の上に、緑色のライムの皮が乗っていた。

「えっ…と」
私が戸惑っていると、彼が言葉を続けた。
「お姉さん、しんどそうに見えたから。ダイキリのカクテル言葉は“希望”っていうんだって。昔こいつが教えてくれた」
バーテンダーを指差して言う。バーテンダーは「ふふん」と穏やかに笑っていた。彼は言葉を重ねる。
「しんどい時って希望を探しても見つからないし、探すのにも疲れちゃうよね。僕は無理に希望を探さなくてもいいと思ってる」
その声に、不安な日々を過ごしたことのある人の真剣さがこもっているのを、私は感じた。
「それに、こんな風に希望のほうが急にやって来たりするかもよ?」
声音に冗談の色を混ぜて「わはは」と笑いながら、彼がまたグラスをこちらに差し出した。

「ありがとう…ございます…」
小声で言って、私はグラスを受け取った。断る理由がなかった。それに、彼の言う“希望”に触れてみたいと思った。陽気な人に不安だった日々があること、不安な日々を経験した人が陽気に過ごしていること、その事実を感じること自体が“希望”だった。

ライムの香りがする。おずおずと一口飲んでみる。酸っぱくて甘くて、リキュールのしっかりとした味がした。強いお酒は苦手なはずなのになぜか、美味しい、と思った。

私の目から、涙がすーっと流れ落ちた。毎晩「もうダメかもしれない」と思いながら、それでも泣いたことはなかった。泣けば少しは楽になるかもしれないと思っても、涙が出ることはなかった。でも今、涙があふれては頬をつたって落ちていく。嗚咽する事もなく、ただ静かに滴が流れた。

急に泣き出すなんて申し訳ないと思い顔を上げると、彼は真剣な顔をしていた。そして少し迷ったあと、
「お姉さん、ハグしませんか?ハグはストレスをいっぱい減らしてくれるんです」
と言った。
「おい、おい」
とバーテンダーがたしなめる声が聞こえたが、私は小さく頷いていた。

席を立って歩いてきた彼が、座ったままの私をふわりと抱きしめてくれる。純粋な優しさと温かさが私を包み、不安を抱えた心にもじんわりと届く。涙があふれて彼のTシャツを湿らせた。彼は背中をとん、とん、と撫でてくれる。私はぎこちなく手を伸ばし、彼の背中に回した。

しばらくしてから、バーテンダーが彼の肩を軽くたたき、彼の身体が私から離れた。
「連れがすみません」
と言いながら、バーテンダーが紙ナプキンを差し出してくれる。
「いえ、いえ」
私は何度も首を横に振りながら、それを受け取った。濡れた顔を拭いて、彼を見る。
「本当に、ありがとう、ございます」
深く頭を下げてから、小さく笑顔を作った。その笑顔を見て、彼は少し安心したようだった。
「とんでもないです!フリーハグだと思って、気にしないでください」
彼はまた明るい声で笑った。

元の席に戻った彼は、私がグラスを空けて席を立つまで、静かにスマホを見ていた。バーテンダーも静かに片付けをしていた。
「ご馳走様でした。改めて本当に、ありがとうございました」
カルーアミルクのお代を払って、また私は頭を下げた。
「良かったらまた来て下さい。ありがとうございました」
バーテンダーが言う。彼も
「今日みたいにお客さんが全然いない日もあるから、良かったらまた来てあげてください。僕もよく遊びに来るので、またお会いしましょう」
と言って、大きく手を振ってくれた。

地図アプリで帰り道をしらべて歩き出す。不安は消えていないが、同時に温かい気持ちも胸の中にあった。家に着いたら、近くの心療内科を検索しよう。そして、明日受診してみよう。もしかしたら、そこから何かが変わるかもしれない。そう考えながら、私は夜の道を歩いていった。

ダイキリ
〜希望〜

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