音MADと個性

すごい音MADを見た時

基本的に私は自分の作った音MADやマッシュアップを自分で見る(聴く)ことが好きです。
しかしすごい音MADを見た後、自作品を見るのが一瞬だけ嫌になります。なにこのレベルの差…
映像面はもとより諦めついているのですごい動画を見たときは純粋に「すげええええ」「やべええええ」という感想が主です。
技術と発想で表現の可能性は無限大です。

敢えて悪い言い方にすると、「刺激受けた!よしやるぞ!」「こんなの作りたいなぁ」「うぐぐぐ・・・」
みたいなことを思わない=向上心の欠如は、私のよくない部分です。

…が!!
音声についてはすごいのを聴くと素直な感動+嫉妬心が生まれます。それが自分の目標とするセンスに近いものであれば尚更です。
上でかぎ括弧でくくった5つの言葉が脳内をぐるぐる回ります。

まあ結局はそれも一時の感情パレードに過ぎず、落ち着いた時にはいつも通り作ってしまうだけなのです。

しかし影響は確実に受けています。
その積み重なった影響が混ざり合って自分の個性を作り上げているとしたら、それは素敵なことですね。(謎の長い前振り終わり) 

<矛盾>

私は前世時代、矛盾した思いを持っておりました。(今は違います)
「音MADに作者の顔は不要」という思いがあった裏で”先生(エア本作者)リスト”を作っていたり、「〇〇さんの新作キター!」となったり、自分の名前でエゴサしたり。(これは今でもやってます)

自身が動画投稿する時には「タイトルの付け方の統一性をなくす」とか「作風がない人になりたい(思うだけ)」というささやかな行動しかしてませんでした。

時代の流れは「投稿者」を重要ファクターと捉え視聴ページに投稿者名が表示されるようになり、フォロワー・固定ファンといった考え方はアングラな音MAD界隈においても一般化していったように思います。

そりゃそうです。
最初から私自身が「〇〇さんの音MAD好き」と作者で語ることのほうが多かったのですから。

<個性>

では「〇〇さんの音MAD好き」なのは何故かを考えていきます。
…考えるまでもなく答えはシンプル。
「その人の個性が出ているから」です。
”クセ”や”作風”といってもいいかもしれません。

その人だけの素材、素材の扱い方、ネタ、構成、演出、展開のさせ方、フォント、音圧、画質、タイトル、サムネ、説明文、固有武器(3D、アナログ感、自作素材など)などなど、羅列するには多すぎるのでこの辺でやめときます。
「圧倒的技術力」や「突飛な発想」そのものが個性となる人もたくさんいます。

<一つ前の記事でも紹介したやつ再び>

 個性をリスペクト/オマージュした動画群も存在します。
「モーレスターシリーズ」はその最たる例と言えるでしょう。

ありとあらゆる狂気を音MADに落とし込んだもの。これを狙って作れることが本当にすごいと思います。
私のようなMAD(真面目)な人間にはこんなMADは作れません。基本は楽しむ側として吸収できるところは吸収したいです。

いや、ほんとにどうやって作るんだ…ってことでもう少し考えてみます。(もう記事タイトル「音MADとモーレスター」でいい)

真面目な私が作る場合のモーレスター

【準備編】
①モーレスターシリーズの動画を見まくります
②お約束と思われる部分をメモしておきます
③そのメモを破り捨てます
④以上です

【音声編】
①BPM、グリッド線の概念を一旦忘れます
②リズムが合わないように細心の注意を払いながら素材を置いていきます(逆にBPM設定してグリッド線を回避するやり方もいいかもしれません)たまに合ってもいいと思います
③たまに原曲をいじります(聴いてて気持ちよくならないように)ポップスター以外にいきなり変えたりしてもOK
④過度な音声加工をした素材もいっぱい使います。逆再生はマスト
⑤いろいろやります
⑥ブツ切り感を意識します
⑦以上です

【映像編】
①中居君の顔をいじります
②いろいろやります
③字幕(テロップ)を多用しますが、オサレフォントはNG(敢えて使用することで場面にそぐわない感じになるならOK)。音声と字幕(テロップ)は合わせなくてOK
④謎/無意味な表現を心がけます
⑤哲学やメタ表現も入れます
⑥さらにいろいろやります
⑦以上です

…難しすぎる!!!!

「考えるな感じるんだ」の精神でその場その場で作っていくのが現実的かもしれません。
とにかくこのシリーズはクセがすごい!のに乗っかる人が多すぎる!面白すぎる。すき。

<合作における個性>

こちらの合作凄すぎるんです。
BATTLE X PRESS
バトルドーム・ツクダオリジナル関連の音MAD合作です。

クオリティが神なのは言うまでもなく、そのクオリティを保ったまま最初から最後まで”テイスト”が一貫しているんです。
複数名の人間が関わっているのにこの一体感はやばい。
主催・参加者間の意思疎通。
個性を抑えて合わせたわけではなく個性を最大限まで引き出してみんなが天井についた結果だと勝手に解釈しております。(個性や技術に天井はありませんが、今はこう表現させてください)

<無個性>

「個性がないことが個性」よく聞きます。
言い換えればそれは「スタンダード」「定番」「王道」かもしれません。

「これこれ!こういうのでいいんだよ」って思う音MADにもたくさん出会ってきました。

<つまり…>

もう何度書いたか忘れましたが同じような結論に行きつくだけなのでした。

個性はあったらあったでいいし(というかあるもの)、なかったらなかったでいい。

本記事序盤で「作者で語ることのほうが多かった」と言いましたが、その差異はほんの少しだけで「音MAD単体で語ること」の量とさして変わらなかったのです。

事実として、私の2023年10選のコメントでは作者に触れたものが半数以下で(それも多いかも)”その音MAD”について語る上で必要だった情報に過ぎず、当たり前ですが音MAD単体で選出したものです。(”〇〇さんだから”という理由は皆無)

↑2023年10選マイリスト

うわーめっちゃ長くなった。モーレスターのせいです。おしまい。