聖クロス女学院物語4巻 お姉さまのなぞとジュリエットの指輪 〈第5章 ジュリエットの恋〉
第5章 ジュリエットの恋
ジュリエット、おまえももうすぐ14歳。
結婚のことについて、
考えたことくらいあるでしょう?
……お母さま、そんな夢の先にあることを言われても。
いいわ、ゆっくり考えなさい。
手をとりあってダンスを踊ってみれば、
その瞳の奥に恋人が潜んでいるかどうか
すぐにわかってしまうものです……
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
ジュリエットの母が、ジュリエットに貴族のパリス公から結婚のお話がきていることを告げるシーン。劇の雰囲気をつかむためとおっしゃって摩耶さまは、そのシーンを一人二役で演じてみせた。
殺風景な演劇部の部室を一瞬で舞台のうえに変えちゃうようなその迫力に、まわりから自然と拍手がわきおこる。わたしも夢中で拍手をしながら、これまで知らなかったことにも驚いていた。
ジュリエットって、まだ13歳なんだ。
もっとおとなの恋のお話かと思っていたのに。
花音もそのこと、知らなかったみたい。
「ジュリエットは、わたくしたちと、そう変わらないんですのね」
そう呟いて、やっと興味がわいてきたというふうに台本を見つめる。摩耶さまが、その花音の一言をするどく聞きとがめて、チクリとおっしゃった。
「あら、そんなことも知らなかったの、青柳さん。有名なシェイクスピアの戯曲なのに」
うわあ、手厳しい! わたしならたちまち青くなっちゃうところだけれど、さすが花音は平然と答えた。
「ええ、無知でお恥ずかしいですわ。あまりにも有名すぎて、まったく興味が持てませんでしたの」
ひゃあ〜! 生意気なお返事に、みながふるえあがる。
摩耶さまも細い眉をぴくりとあげたけれど、でも生徒会の蜜希さまが、いつものようににやにやとコトのなりゆきを眺めているのに気づいて、すぐに矛先をおさめた。
「まあいいわ。これからさんざん興味を持たせてあげるわよ」
「ええ、摩耶さま。どうぞよろしくご指導くださいませ」
花音が、すましてそう応える。だけど、めずらしくすぐ気弱な目になってため息をついた。
「……正直なところ、わたくし、舞台などまったくつとまる気がいたしませんわ」
「あら、いがいね。どうして?」
花音が、もらったばかりの台本を、ぎゅうっと胸に抱いてうつむく。
「さきほどの摩耶さま、すばらしい演技でしたわ。お母さまはおっとりとおおらかで、ジュリエットは可憐でむじゃきなようすが伝わってきて……」
「………………………」
「どれほどご指導いただき、練習をしたとしても、あのような演技がわたくしにできるかどうか、とても自信がないのです」
しおらしい花音に、摩耶さまが「ふぅん?」という顔をした。ただ生意気なだけの子かと思ったのに、というふうに。そしてはじめての舞台で大役を演じる花音を気の毒に思ったのか、はげますように花音に歩み寄ると、その肩にポンと手を置いた。
「うまくやろうと思わずに、あなたらしいジュリエットを演じればいいわ。それがこの伝統劇のおもしろさなの」
「この伝統劇のおもしろさ、ですか?」
「ええ、そのうちわかるわよ。とにかくあなたらしく。この舞台は、それに尽きるの」
摩耶さまはそれだけおっしゃると、サッと顔をあげてみなを見わたした。
「では、これから一年生に配役オーディションの説明をします!」
えっ、配役オーディション?
とたんに周囲がざわつく。
わたしもすごく驚いた。だってわたしたちの配役は、演劇部のお姉さまがたにうまくわりふっていただけるものだと思っていたから。
そんな小羊たちの動揺など、はなからお見通しだというような鬼の部長さま。
「甘いわね。役というのは勝ちとるものよ」
いかにも演劇の鬼といったごようすでそうおっしゃると、ひときわ張りのある声でご説明をはじめた。
「一年生の配役は、じつはさほど多くはありません。ほとんどが舞踏会で踊る群舞の淑女役や、街中で乱闘を起こすキャピュレット家とモンタギュー家の召使い役です。しかし……」
そこでたっぷり間をとって、あわれに身を寄せあっているわれら一年生にニヤリと笑ってみせる。
「わが聖クロス女学院に代々伝わる『ロミオとジュリエット』の脚本には、原作にはないユニークな改稿があるの」
ユニークな改稿……?
「そう。ジュリエットに恋のライバルがいるのよ」
えっ、ジュリエットに恋のライバル!?
とたんに、みなが興味しんしんで身を乗り出した。
摩耶さまが、どこかとくいげにフフッと笑う。
「いったい、いつ、どなたがお考えになったのかしらね。聖クロス版では、原作では亡くなっているはずの乳母の娘スーザンが生きていて、ジュリエットとともに育ったという設定になっているのよ」
乳母の娘……。ロミオとジュリエットに、そんなキャラがいたんだ。
ぜんぜん知らなかった!
ざわつくみなに「おしずかに」の仕草をしながら、摩耶さまがお話をつづける。
「同い年のジュリエットとスーザンは、まるで『赤毛のアン』のアンとダイアナのように仲が良くて、えいえんの友情を誓っているの。だけどジュリエットがロミオと恋に落ちたとき、……なんと親友の彼女もまた、ロミオに恋をしてしまうのよ」
ええっ!
わたしは思わず、花音を見た。
花音もおどろいたように、わたしを見ている。
……そうだよね。
だってまるで、おなじお姉さまに憧れてるわたしたちみたいじゃん!
妙に心臓がどきどきしてくる。ところが、摩耶さまのお話のつづきは、とんでもなくゆううつなものだった。
「ジュリエットと同じようにロミオに恋したスーザンだけど、彼女はジュリエットの親友という立場からも、乳母の娘という立場からも、だれにも恋を打ちあけることができない。だから悲しみをこらえてロミオとジュリエットの恋を応援し、ふたりの逢瀬を助けるの。とてもけなげに」
「…………………………」
「だけど、最後に悪魔の誘惑に負けて、とうとうジュリエットを裏切ってしまうのね。ジュリエットが薬で仮死状態に陥っているだけだということを、ロミオに伝えないのよ」
そのせいでロミオはジュリエットが死んだと悲観して命を絶ち、ジュリエットもまた後を追ってしまうの。
そしてスーザンも、自らの命を絶って……
「ちょっ、待ってくださいな! そんなに救いのない話なんですの!?」
花音があからさまに動揺する。
摩耶さまが、涼しいお顔で微笑んだ。
「あら、でもそれでキャピュレット家とモンタギュー家は和解するのよ?」
「そんなの、どうでもいいですわ……」
「あはは! まったくそのとおりね。いずれにしても」
摩耶さまが、挑戦的にわたしたち一年生をながめまわした。
「わが聖クロス女学院ならではのジュリエットの親友、スーザンは、ものすごく重要な役どころよ。心理描写もふくざつで物語のキーパーソン、準主役といってもいいわ」
準主役! みながごくりと唾をのむ。
ジュリエットにも負けない大役……
「と、いうわけで、一年生の配役オーディションは、おもにこのスーザン役を選ぶテストになります。次回、私たち三年生の前でみなさんに演じてもらいますから、台本のこの部分をよく読んで……」
そのとき、摩耶さまのご説明を遮るように、鉄琴のように高い声がキーンと響いた。
「異議あり!」
うわあ、璃子さんだ!
璃子さんが、こうふんでおでこまで真っ赤にして手を挙げている。
やれやれ。摩耶さまがわざとらしく指で耳のあなをふさぎながら、璃子さんを振り返った。
「はい、どうしたの。一年ナザレト組の花山院璃子さん」
「摩耶さま! どうして準主役の配役はオーディションなんですか? 璃子、そんなのおかしいと思うんですけど!」
「おかしい? どうして?」
「だって、主役は得票数で決まるのに、なんで!?」
そっか、言われてみれば……。さざなみのようにざわつきが広がる。
璃子さんが、ものすごく悔しそうにうなった。
「……璃子、投票で二位だったんです。だったら、準主役は璃子じゃないんですか? 花音ちゃんは一位ってだけでジュリエットなのに、璃子だけなんでオーディションをうけなきゃいけないの!?」
それまでずっと黙っていた蜜希さまが、いきなり「あはは!」と膝をたたいて大笑いした。
「ふふっ、この話、二年前にも聞いたことがあるねぇ、摩耶?」
とたんに摩耶さまがいやな顔をした。
意に介さず、蜜希さまが続ける。
「あのとき、摩耶もいまの璃子ちゃんとまるっきりおんなじことを言ったよね。一位の史織がジュリエット役なら、ジュリエットの親友役は、二位だった自分のはずだって」
またもや、あたりがざわつく。
史織さま、一年のときはジュリエットだったんだ!
そして三年生でロミオ? すごい、そんなことってあるの?
もしかして聖クロス女学院はじまって以来なんじゃない……?
摩耶さまがつややかな額に手をあてて、厄介そうにため息をついた。
「みなさん、お静かになさい! ……蜜希、よけいな口を挟まないでくれる?」
「失敬、失敬。あのときは先輩がたに“それが伝統だから”なんて押し切られていたけど、さて、摩耶部長はどうするのかと思ってねぇ〜」
からかうような物言いに、摩耶さまの眉がまたキイッとつりあがる。
だけど、またまたグッとこらえて、摩耶さまはくるりと璃子さんに向きなおった。
「花山院さん、二位といっても、あなたは繰上げで二位のはずよ。実際に青柳さんの次に得票していたのは、今回は出演を辞退されたエルサレム組の宮下 葵さんじゃなかったかしら?」
璃子さんがグッと詰まった。
でも、またキッと顔を上げて。
「でも、葵ちゃんとは、たった一票差だったんです! そんなのぜんぜん変わらなくないですか!?」
「ええ、そうね。今年の一年生は青柳さんのほかはどんぐりの背比べで……。たしか、そちらにいる松本陽奈さんも、ほんの数票差じゃなかったかしら。ねぇ、松本さん?」
「え? は、はい……」
いきなり話を向けられてドキッとする。
いつのまにか、わたしの名前を覚えてくださっていたことにも。
摩耶さまが、当然よというようにうなずいて、お話を続けた。
「というわけで、だれが二位でもおかしくないから、やはりオーディションは必要でしょうね」
「そんな! だったら、主役のジュリエットもオーディションしてください!」
璃子さんが、ツインテールを逆立てて必死でくいさがる。
「花音ちゃんはずっと、ジュリエットを辞退するって言ってたんです! ちっともやる気がないの! だったら璃子がやるのに! 璃子のほうがずっと、ジュリエットをやってみたいって思ってるんです! 璃子、やってみたいのに!」
璃子さんは、もはや半泣きだ。
摩耶さまが、どこか同情するようなまなざしで璃子さんを見た。
「……あなたの気持ち、よくわかるわ。だけど花山院さん、みなさんがご覧になりたい配役で、学院生活の思い出に残るすばらしい舞台をお見せするというのが、この伝統劇が代々担っている役割なの」
「だったら、璃子に投票してくれた人たちは、璃子のジュリエットが見たいんだと思いますけど!」
花音を見ると、心底げんなりしたようすで窓の外を見ている。
そんなにおやりになりたいならお譲りしますわ。
お姉さまがたの手前、そう言いたいのをなんとかこらえているように。
摩耶さまが困ったように腕を組む。そして、かすかに皮肉げに片頬をあげると、ふいに窓際に座っていらした史織さまに話をふった。
「史織はどう思う? あなたのかわいい従姉妹ちゃんのご意見だけれど」
えっ、史織にそんなこと聞く?
思わぬ展開に、みながますます固唾を飲んで見守る。
それまで黙ってやりとりを見守っていた史織さまは、微笑みを浮かべながらほっそりした指先で髪を耳にかけると、ちいさな花がそっと咲くように唇を開いた。
「そうね、毎年のように、こうした諍いが起きるのですもの。この伝統劇はわたしたちの代でおしまいにするという議論も必要なときではないかと思うわ」
ええええっ!!! みながギョッとしてのけぞる。
な、なんという爆弾発言!!!
可憐なその気配からは、とても信じられないほどの!
勝気そうな摩耶さまも、さすがに顔が引きつっている。
たちまち凍りついた空気をものともせず、ごく淡々としたごようすで史織さまはお話を続けた。
「いくら伝統とはいえ、いまどきこのような人気投票じみたやり方は感心しないわ。思い切ってわたしたちの代でこの伝統劇をおしまいにするのも勇気ある決断だと思うけれど、どうかしら? 摩耶」
とたんに璃子さんが、あわてたようにキィキィわめいた。
「史織ちゃん! 璃子はそういうつもりで言ったんじゃないんだからね!」
「わかってるわ、璃子ちゃん。あなたを責めているのではないの」
史織さまが璃子さんをなだめる。
「ただ、前々からずっと、そう思っていたのよ」
凪いだ海のようなまなざしで見つめられ、摩耶さまが追い詰められたように、ギリッと唇をかんだ。
「………史織のいうことはもっともよ。でも悪いけど、私の代で伝統を終わらせることはできないわ」
「そう。なら、仕方がないわね」
史織さまが引き下がる。なのに、なぜか摩耶さまは、かえってカッとなったようにはげしく怒り出した。
「なによ、史織はいつもそうやって涼しそうな顔をして!」
さきほどまでのクールなごようすはどこへやら、おでこまで真っ赤にして機関銃のように史織さまを責めたてる。
「そういうとこが、いちいち腹がたつのよ! だいたい、いまその話する必要ある!? ええ、たしかに伝統劇のあり方は大事なことかもしれないわね! でも、あなたはいつも……!」
「摩耶」
史織さまが、すらりと椅子から立ち上がった。
「下級生の前で諍いをするつもりなら、わたしは今日は失礼するわ。お話はまた二人のときに、別の場所でいたしましょう」
摩耶さまがグッと言葉に詰まる。喉元にヒュッと、白いやいばを突きつけられたみたいに。
おふたりのあいだにただようあまりの緊張感に、一年生どころか三年生のお姉さまたちまで息をのんでなりゆきを見守っていた
「まあまあ、ふたりとも」
蜜希さまがあせって、その場をとりなそうとする。
そのとき摩耶さまがフッとひとつ息をついて、こうべを垂れた。
「………悪かったわ。座って、史織」
悔しそうに眉を寄せていらっしゃる。でも摩耶さまは、この場は折れると決めたようだった。演劇部の部長として。
「本番まで時間がない。今日は今日やれることをしてしまいたいの。協力して」
「わかったわ」
史織さまが静かに着席される。
すごい、史織さま……
いつものやさしげな雰囲気からは想像もつかない凛としたごようすに、わたしだけじゃなく花音、そして一年生のみなが圧倒されていた。
でも、わたしはすこし前から気づいてた気がする。
史織さまがとてもはっきりとした、芯のつよい考えをお持ちのお姉さまだということに。
『気のあわないお友達とむりをしていっしょにいるなら、ひとりでいるほうがずっと清々しくて有意義なこともあるわ』
沖縄でそういわれたとき、すごくびっくりしたけど、でも素敵だなって思ったんだ。わたしにはとてもそんなふうにできそうもないから、すごく。
その後は、なにごともなかったかのように配役オーディションの話がつづいた。璃子さんもさすがにびっくりしたのか、それっきりだまって、おびえたリスのようにちょこんと椅子にこしかけていた。
◇ ◇ ◇
「なんなんですの、このお話はいったい!」
次の日の放課後の教室。やっとしぶしぶ台本を読み終えた花音が、やけに憤慨したようにパタンと台本を閉じた。それを見ていた葵が、座ってる椅子をガタガタならしながら愉快そうにからかう。
「ははっ。シェイクスピアにケチをつけるのかよ」
「ええ、つけますわ。だって葵、これって、たった五日間の恋物語ですのよ!」
へー、五日!
葵が目をまるくする。
「なにすんだよ、たった五日で」
「出会ったその日に恋に落ちて、二日目に結婚して、三日目にロミオが殺人をおかして追放されて、四日目にジュリエットが偽装自殺をして、五日目にロミオが自殺して、ジュリエットがその後を追うのですわ」
「マジかよ。むちゃくちゃな話だな」
「ええ、むちゃくちゃですわ」
花音がほんとうに不可解というふうに、しぶーい顔で肩をすくめた。
「これのどこが世紀の名作なのか、わたくしにはまったくわかりませんわ。ロミオも、ちっとも素敵じゃありませんし」
「へっ、そうなの?」
「ええ。浮気で身勝手な、調子のいい若者という感じですわよ? ジュリエットに出会う前に別の女性に恋してますし、なのにすぐジュリエットに心変わりして、結婚したその日に人を殺してしまうなんてありえません。ジュリエットは、どうしてこんな人に恋をしたのかしら?」
ひたすらプンプンしてる花音に、奈々がくすっと笑った。
「でも、そんなロミオでも、史織さまが演じられたら、とっても素敵に思うんじゃない? だって、史織さまが月夜の晩に、バルコニーの下から花音を見あげて、こんなふうにおっしゃってくださるのよ?」
ぼくは船乗りじゃないけれど、
たとえあなたが最果ての海の彼方の岸辺にいても、
これほどの宝物を手に入れるためなら
どんな危険を冒しても海に出ます……!
花音が、みるみるうちに真っ赤になる。でも、すぐに「ん?」と首を傾げた。
「なぜ、そのせりふを暗記してますの、奈々? 台本をお読みになったわけでもないのに」
「えっ? だ、だって、有名なせりふよ?」
そういうと奈々は、「そういえば今日は、時ちゃんとスケッチする約束をしてるんだった!」とスケッチブックをかかえて、ばつが悪そうに教室を出て行ってしまった。
「……まあ、奈々ったら、ロミジュリが好きなんですのね」
「あー、好きそうかもね、そういえば」
「悪いことしましたわ。さんざんケチをつけてしまって」
「ね。でも、わたしもどっちかというと、花音と似たような感想かな」
わたしは昨夜のうちに台本を読んでみたのだけれど、読み終えたときやっぱり、ちょっとあきれちゃったのだ。
だって、その人のことよくしらないうちにあんなに好きになっちゃって、お互いにすぐ毒を飲んで死んじゃったりして、これってそんなに素敵な恋物語かなあ? なんて。
もちろん、うわ〜って、ときめいちゃったシーンもあったけどさ。
えっ、こんなにたくさんのキスシーンを花音と史織さまが演じるの? ……とか。
「運命の恋に落ちると、二日で結婚ができるものなのかしら」
「さあ、わかんない。わたしは、もっとじっくり考えたいかな」
「そうですわよね。人生の一大事ですわよ」
葵さんが、そわそわして立ち上がった。どうも苦手な話になってきたみたいだ。
「じゃ、あたしもそろそろ部活行くわ。練習試合が近いんだ」
伝統劇の練習で神秘倶楽部がお休みのあいだ、葵さんはサッカー部の助っ人になって張り切っている。ふたりで教室に取り残されて、わたしたちは顔を見あわせた。
「……どこかで台本の読み合わせでもします?」
「……そうだね」
今日は演劇部の練習はないけど、明日は配役オーディションだ。てきとうに中庭の芝生のとこに陣どって、ふたりで台本を広げる。花音が、急にいきおいこんで言った。
「陽奈、なんとしても親友のスーザン役を勝ちとってくださいませね」
「いやだよ、花音を裏切る役なんて」
「わたくしを裏切るのではありませんわ。ジュリエットを裏切るのです」
「一緒でしょ、そんなの」
そんな役はいや。
わたしは御ミサのように指を組んで、おおげさに十字を切った。
「スーザン役は、つつしんで璃子さんにお譲りします。アーメン」
「ええっ、璃子さんと親友役ですの? そんなの悪い予感しかしませんわ」
「あはっ、最初から恋のライバルになっちゃうよね!」
「そうですわよ。しおらしくわたくしの恋を応援してくださる璃子さんなんて、まったく想像がつきませんわ」
そんなの璃子さんじゃない!
わたしたちはあははと笑いあって、台本をほうり出した。
あー、いいお天気。だいぶ涼しくなってきたけど、まだ陽は長い。
「ねぇ、陽奈。そうはいっても、わたくしのために頑張ってくださいますわよね?」
よほど璃子さんとの親友役が気がすすまないのか、花音がしつこくいいつのる。わたしは無慈悲に首を横にふった。
「裏切る役は、いやなんだってば。それに、わたしより璃子さんのほうがずっとやる気があるし、演技も上手だと思うよ?」
だからきっと、璃子さんが親友役を勝ちとると思う。
わたしは群舞役で、素敵なドレスが着られればいいかな。
町でけんかをするような召使い役は、ちょっといやかなぁ。
望みはそのくらい。
「平和主義ですのね」
「そうだよ。ひどいことしたら、あとで自分がつらいんだもん」
沖縄の斎場御嶽で、璃子さんにひどいこと言っちゃったときのことを思い出す。おたがいさまだけど、傷つけたぶん、傷ついた。奈々も泣きそうになっていた。
持ち上がり組のわたしたちは、そういうとこ、すこし気が弱いかもしれない。おゆるしください、マリアさま……! すぐにそう思って、懺悔したくなる。
「ふぅん。陽奈って、よくわかりませんわね。ほんとはけっこう気が強いと思いますけど」
「花音には負けるよ」
「そうかしら? あんがい同じくらいだと思いますけど」
そのとき、中庭に面したわたり廊下に、かがやく光をまとったようなお姉さまが通りかかった。あっ、史織さまだ!
わたしたちは芝生のうえでぎゅっと手を握りあい、その憧れのお姿をながめる。ただそれだけで、こちらからお声をかけたりはしなかったのだけれど、史織さまはすぐにわたしたちに気づいて、にこやかに歩み寄ってきてくださった。
「ごきげんよう、陽奈ちゃん、花音ちゃん。えらいわね、さっそくお稽古をしていたの?」
「は、はい!」
ふたりそろって、あわてて台本を拾う。あいさつだけですぐに去っていかれるのかと思ったら、いがいにも史織さまは「いいかしら?」と、わたしたちのそばにすとんと腰をおろした。
夏服の水色のスカートが、あさがおのようにふんわりとまるく広がる。
「ああ、わたしもはやくせりふを覚えなくっちゃ。摩耶にまた叱られるわ」
「あーー……」
摩耶さま、厳しそうですもんね。でも、その摩耶さまに、史織さまは毅然とおっしゃったのだ。この伝統劇は、わたしたちの代でおわりにしてもいいんじゃないかと。
「あの、あれから平気でしたか? その、摩耶さまと」
つい、歯切れがわるくなってしまう。でも史織さまはわたしの言いたいことをさっしてくださり、「ごめんなさいね、心配をかけて」と笑った。
「もちろん、大げんかしたわよ、あのあと」
大げんか!
なんだか想像がつかない。
摩耶さまはともかく、史織さまが喧嘩だなんて。
「これからという日によけいなことを言うな! って、ものすごい剣幕で怒鳴られちゃった。わたしとしては、まったくよけいなことではないのだけれど」
花音がうなずいて、おずおずと口をはさむ。
「わたくしは、史織さまが正しいと思いますわ。伝統劇を続けるにしても、投票で役を決めるのではなく、熱意をもっておやりになりたい方がなさるのが適切ではないかと思いますし」
「そうね」
史織さまが、困ったようなお顔になる。
「摩耶も、それはわかってると思うの。だけど、そうではないことに気づいたと言うのよ」
「そうではないことに気づいた?」
「そう」
史織さまは、なにか考えこむように長いまつげをふせると、ぽつぽつと話しはじめた。
「摩耶はね、一年のとき、どうしてもジュリエットがやりたかったの。璃子ちゃんみたいに。でも、演技なんてしたこともないわたしが選ばれてしまった。それは悔しかっただろうと思うのだけど……でも、やっぱり史織がやってよかったって言うのよね、いまは。どうしてかしら」
それは史織さまのジュリエットがすばらしかったからでは……?
そう思ったけど、おべっかみたいだから黙っていた。花音も遠慮して黙っている。雰囲気をさっして、史織さまが謙遜するようにおっしゃった。
「ううん、けっこう下手だったと思うのよ? 恥ずかしいけど」
本番では緊張して、せりふもたくさん間違えちゃったし。
花音を安心させるように、そんなことを言う。
「だから、ずっと演劇一筋だった摩耶からすると、子どものおゆうぎのように見えたんじゃないかしら。でも、観客のみなさんがよろこぶということ、それもとても大切な演劇の要素だって、そんなふうに言うの」
花音がすこし不安げな顔になった。わたくしが演じたところで、観客の皆さんはよろこんでくださるのかしら? そんなふうに。
「わかったような、わからないような気持ちだわ」
喧嘩のやりとりを思い出したのか、ひとりごとのように史織さまが続ける。
「だからといって、なぜわたしたちがその役を引き受けなければならないのかと思うし……。あっ、これを言うと、また烈火のごとく怒るのだけどね、摩耶は」
なぜか愉快そうに史織さまはそう言うと、「でも誤解しないでね」とわたしたちに笑いかけた。
「意外かもしれないけれど、わたしは摩耶のことが嫌いじゃないの。ううん、どちらかというと好きな友達かな」
「えっ、そうなんですか!?」
「ええ」
史織さまはそう言うと、指先を頰にあて、うーん……としばし、なにかを考えこんだ。言おうかな、どうしようかなというように。そして。
「ふふっ、言っちゃおうかな。あのね、わたし摩耶のこと、本当に好きになりかけたことがあったの。一年生のとき」
「ええっ!!!」
わたしたちはギョッとして手をとりあった。
ど、どうしよう、なんだかすごいことおっしゃってない? 史織さま!
史織さまが照れくさそうに、両手でかわいらしく口元をおさえた。
「だって、すごく情熱的なんですもの。わたしがジュリエットを演じたとき、摩耶が一緒にお稽古をして芝居をつけてくれたのだけど、そのときいつも彼女がロミオの役になってくれてね」
それがあまりにも上手くて、そうね、
そのときロミオ役だったお姉さまもとても素敵だったけど、
その方よりもずっとずっと情熱的な切ない瞳で
ジュリエット……って、わたしを呼ぶの。
まるで、本当にわたしのことを好きなのかしらと錯覚するくらい……
そのときのことを思い出したのか、史織さまは可憐な花のように恥ずかしげにクスクスと笑った。
「それが自分でもびっくりするくらい、毎回ドキドキして困ったのよ。お稽古のあいだじゅう、このまま本当にキスしちゃったら摩耶は怒るかしらと考えたり」
ぎゃああああ!!!
あまりのことに、わたしたちはバターンと芝生に倒れ伏した。
「あら、どうしたの? 陽奈ちゃん、花音ちゃん」
「……し、刺激が強すぎますわ、史織さま」
「……ちょっと、なんだかもう、心臓がはれつしそうで」
あー、恋ってこんな感じ? よくわからないけど。
子どもっぽいわたしたちの反応に、史織さまは、あはは! と楽しげに笑った。
「ふふ、お芝居がうまいって、すごいわね。お稽古が終わったらツーンとされて、それで毎回、ああ錯覚だったって気づくのだけど、悲しかったな、あれは」
そっかぁ、史織さまと摩耶さまのあいだには、そんなことが。
そっか、そっか、うー、なんだろうこの気持ち。
わたし、なんだか、なんだか、胸のあたりが、きゅうってなって……
「……それで、摩耶さまのことは、“好きな友達” なんですね」
「ええ、なんとなくね。演技であっても、錯覚した余韻みたいなものかしら」
わたしっていつもそうなのよ。
そんなふうに史織さまは言った。
ものごとの余韻みたいなことに、いつもとらわれてしまうの。
それって、どういうことだろう。わたしにはむずかしくてよくわからなかった。だけど、史織さまがいつもどことなく潤んだ遠い瞳をしているのは、そのせいなのかもしれない。吹きぬける風に長い髪をおさえて、史織さまがさみしげに呟く。
「でも、摩耶はきっとわたしのことが嫌いだわ。それもよくわかるのだけど、だからといって、わたしはあまり摩耶のことを嫌いにはなれないの。演劇一途で、ずっと夢を追っているのも素敵だなと思うし」
わたしには、そういうところはないから。
謙遜するようにそう言って、「じゃあ、行くわね」と立ち去りかけた史織さま。花音がガバと跳ね起きて、華奢なその背を引き止めた。
「待ってくださいませ、史織さま!」
「ん? なぁに?」
「あの、……蜜希さまとはどうなんですの?」
ぎゃあ!!! か、か、花音、なんてこと聞くの―――――!!!!
あわててはがいじめにして、とんでもないその口をおさえたけれど、もう遅い。史織さまは、えっ? と目をまるくして、それから心底おかしそうに軽やかに笑った。
「あはは! よく聞かれるわ。蜜希とはどういうご関係? って」
「ええ、全校生徒の関心の的ですわ」
「ふふ、花音ちゃん、新聞部の駒林千春さんみたいね」
チクリとからかわれて、花音がシュンとなる。その髪をぽんとやさしく撫でて、史織さまは謎めく瞳でわたしたちを煙にまいた。
「蜜希のことも、とても好きよ。それ以上は秘密」
じゃあね。
そう言って、もうふり返らずに立ち去ってゆく。
ああ、史織さま。その背に揺れる紅茶色の髪に、オレンジの夕陽が光ってる。わたしたちはまた申し合わせたように、ぽてっと芝生に倒れこんだ。
「……ああ、陽奈。史織さまが素敵すぎて、わたくし恋に落ちそうですわ」
「……悪いけど花音、先に史織さまを好きになったのはわたしだからね」
「なにをおっしゃいますの。こういうことは、あとさき関係ありませんわ」
芝生をゴロンところがってこっちを向き、花音がわざと勝ち誇ったようにニッと笑う。
「だって、わたくしは、史織さまのジュリエットですのよ?」
あーーー、むかつくーーー!!!
わたしは子犬のようにぎゃんとわめいて、にくらしいほどかわいい花音に飛びかかった。ふたりでごろごろと芝生のうえを転がりまわってはしゃぐ。枯草を髪にも制服にも眼帯にまでくっつけた花音が、楽しそうに笑う。わたしも草まみれになりながら大笑いして、さいごにどーんと花音のうえにのっかった。
「もーっ! 本気で、ちょーうらやましいんだけど!!!」
「あはははは! 勝負ありですわね、陽奈!」
「うるさいっ。もー、おしつぶしてやる!」
えい、えいっ。
ふざけながらわたしは、花音とずいぶん仲良くなったなーなんてことを思った。花音もそんなふうに思ったのかもしれない。あたまをぐりぐりと肩に押しつけたわたしをふいにぎゅうっと抱き寄せて、満足げに夕暮れの空を見あげる。
「見て、陽奈。空が燃えるように真っ赤ですわ」
「この体勢じゃ見えないよ。離して」
「じゃあ、えいえんに見なくてもいいですわ」
ねぇ、陽奈。
花音が囁く。
恋っていったい、どんな感じなんでしょうね。
わたくしたちにもそのうちわかるのかしら、ジュリエットのように……
つづく
☆次回予告☆
ご無沙汰してます、華枝です。焼きたてのフィナンシェはいかが?
悩んだ末に伝統劇は辞退したけど、不安だわ。史織と蜜希はちゃんとみなさんの期待に応えてるかしら、なんて。蜜希はあのとおりいつもふざけて茶々を入れてばかりだし、史織もああみえてすぐに爆弾を投げつけるタイプよ?
敬虔で高潔すぎるあの子のこころは、ときにひどく誰かを傷つける。そして自分の言葉が誰かを傷つけたことに驚いて、また祈る。初等部の頃からそんなことの繰り返しで、中等部では微笑みを身につけて穏やかにすごしてたけど、でも最近はすこし自分の素を見せて、あえて物議を醸してるようにも思えるわ。陽奈ちゃんや花音ちゃんに出会ってから。
……たぶん、すごくむじゃきにおもしろがってるのよね、神秘倶楽部のみなさんのこと。そういうとこも、あの子にはあるから。蜜希にもね。それが行き過ぎないといいのだけれど。
って、はー……、どうして私っていちいちそんなことを心配しちゃうのかしら! 私がいなくたって史織と蜜希は、ちゃんとやる。そうよ、私は料理部のことを考えなくちゃ。そう決めたのよ、もう自分のことを優先するんだって。そうだ、このクッキーが焼けたら、葵ちゃんに差し入れを持って行こうかしら。サッカー部の試合が近いみたいだし。ふふっ、こういうのって楽しいのね。男の子みたいな彼女、いつもすこしぶっきらぼうで、照れくさそうなところがかわいいわ。
あっ、次回予告をしなくっちゃ。といっても、私は今回あまり出番がなくて、状況がよくわからないのよね。一年生の配役オーディションで、なにか一波乱あったってお話だけど。
花音ちゃんと陽奈ちゃんと璃子ちゃん、あの三人が揃ったら、なにも起こらないはずはないわね。どうぞ、お楽しみに。ごきげんよう。
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