南蛮漂流〈奇縁譚つれづれ〉
大阪日本ポルトガル協会30周年記念会報・寄稿
ポルトガルギター湯淺隆(MUZIC@NET/マリオネット)
大阪日本ポルトガル協会30周年、誠におめでとうございます。長らくのご縁に深く感謝いたします。この記念誌へ寄稿するにあたり、何か気の利いたことを書こうとも思いましたが、「30年」というキーワードに則し、自然と思い出す事々に身をゆだねることにしました。まずはその我がままをご容赦くださいませ。畢竟、この30年、総じて言えることは、私はその時々に頂いたご縁に呼応し、与えられたステージを「しどろもどろ」でこなすことで、次のフェーズに移行し更なるご縁に恵まれ、結果、今があるように思います。私どもの仕事は「やーめたァ。。。」と言って、投げ出してしまえば、すべて終わってしまう無形の生業(なりわい)です。思うに、ここまで続けられたのは、人と人が結ぼれ合う実にかそけき機微に些少にでも感応ができて、ギリギリのところで「筋」を通してきたことで、ご縁が紡がれたからではないかと思います。ただし、その我が身はある意味で血まみれです。が、傷に学ぶことは多大で、痛みの強度は同等の思慮を与えてもくれました(教条的になり恐縮です・・・)以下、「南蛮漂流〈奇縁譚つれづれ〉」を、僭越ながら我が30年の月日と重ね合わせ、「大阪日本ポルトガル協会30周年」と、そこはかとなく足並みを揃えて記させていただきたく存じます。
デビューCD「ぽるとがる幻想」まで
私の初渡ポは1987年だった。そこで得たいわゆる「ポルトガルギターという『事々』」を自分なりに「カタチ」にできたのが8年後の1995年で、それは「ぽるとがる幻想」という日本におけるポルトガルギター初の「CDリリースという『事』」であった。CDのレコーディングは1994年の冬、大阪日本ポルトガル協会の設立11月14日の直後、麻布十番の小さいながらも、若き日の小室哲哉氏なども使用したレコーディングスタジオだった。プロデューサーは小澤音楽事務所と音楽出版ジュンアンドケイの社長の故・小澤惇氏。CDリリースは新星堂のレーベル「オーマガトキ」が決まっていた。制作ディレクターは、タンゴ歌手の故・阿保郁夫氏で、日本人タンゴ歌手の草分け藤沢嵐子さんと世界をツアーしたツワモノであった。小澤氏率いる通称「OZAWA」は、戦後の歌謡界を席巻した音楽事務所である。ラテン音楽のジャンルを得意とし、菅原洋一氏とロス・インディオスをスターダムに押し上げたことで、その華々しい歴史がスタートした。小澤社長と初めて会ったのは、ホテル日航大阪の最上階にあったスカイラウンジ「ジェットストリーム」だった。当時は大手のホテルの階上には、生演奏やショーを売り物にしたラウンジが多々あり、ジェットストリームもそのひとつで、「OZAWA」はそこに多くのタレントを送り込んでいた。小澤社長との話の大意は以下のようなものだった。「FADOはいいねェ~。でも、売れないなァ~。ゆかり(伊東ゆかりさん)なんかも仕掛けたが、イマイチだったんだ。あ、でも、湯淺クンは曲をかけるのか・・・。じゃあ、まずはそれでいけばいいのかな・・・」。そんな流れになり、楽曲とその管理関係を 「OZAWA」関連に委ねることで、CD制作の概ねの方向性が定まった。後日、間を置かずして「OZAWA」大阪事務所のT氏から「小澤が『やる』と言っておりますので、着地点はあると思います。お受けになりますでしょうか?」との確認の電話があった。返答は言わずもがな快諾ではあるが、極めてクールでそげ落ちた業界の物言いに、受話器を置いた後、何か大きな流れに組み込まれ、後戻りは出来ないという神妙な心持ちになったのを憶えている。
「リスボンにて」
1995年2月末にCDがリリースされたが、地元関西は阪神淡路大震災の直後で、世情は明るい雰囲気ではなかった。余談だが、実は私は地震当日の1月17日早朝、成田空港に仏領ポリネシアン諸島より帰国したばかりだった。昼過ぎには関空まで乗り継ぎ、連絡橋でりんくうタウンに渡る際には、対岸に燃える神戸がピンク色の煙りに染まるのを見た。その現場の光景を移動中のリムジンバスのテレビがニュースで放映していた。自身のこの旅行は1994年末にCD「ぽるとがる幻想」の制作を終え、諸々慰労を兼ねた短いバカンスのつもりであったが、そうは問屋が卸さぬ我が巡り合わせに、ただ深く黙し、そして祈るしかなかった。1996年にはCD「ぽるとがる幻想」を抱えて、約5ヶ月リスボンに滞在した。滞在中には、CD「ルジタニア憧憬」を現地録音したり、地元の音楽関係者と会ったり、また、日本から知人が訪ねて来たりと(大阪日ポ協会のツアーもありました!)思い返すとそれなりにバタバタしていたが、自身は明確なミッションを持っていたわけではなく、気ままにポルトガルギターを練習し、昼からワインを飲み、夜にはFADOを聴きに行くという日々を、ただリスボンで過ごしていた感が強い。今から思うと実に贅沢な時間で、そこで感じたリスボンという街の匂いのようなものは、何ものにも代えがたい財産である。滞在中には「Associação Portuguesa dos Amigos do Fado」と「Academia da Guitarra Portuguesa e do Fado」という二つのファドとポルトガルギターの民間の愛好団体に入会した。前者の「Associação~」の主催者は、こよなくリスボンのファドを愛するジュリエッタ&ルイスご夫婦で、28年を経た現在も家族ぐるみの付き合いがある。ちなみに今年(2024年)、私どもの「飛鳥Ⅱワールドクルーズ」での仕事の際には、リスボン錨泊中における船内ローカルショー(ファドとフォルクローレダンス)をお願いし、5年ぶりにお会いした。会長のルイスはいまだにヘビースモーカーで、やや足は弱ったもののかくしゃくとしており、奥様のジュリエッタのFADOの歌声も健在だった。後者「Academia~」の会長のルイス・ペネンド氏とは、当時その会の志向がコインブラのファドが主流であった為、それ以来疎遠になっていて残念であるが、滞在中には様々なイベントの機会や貴重なご縁を頂いた。ペネンド氏はいわばエリートのインテリで、その示唆は機知に富んでいた。私どもの音楽を、文化歴史的背景を踏まえて「芸術表現」として俯瞰し、やさしい英語で批評してくれたりして大いに参考になった。氏の示唆の中で印象深く憶えているのは、「再来年の1998年にはリスボン万博がある。テーマは『海』である」と。それは、私どもの演奏のスタートの曲がいつも「海」という曲であることを踏まえた上での言(げん)で、何やら確信に満ちた眼差しで私を見据えたのだった。結果として、私どもは98年のリスボン万博に招かれるのだが、そこまでの経緯はまさしく「奇縁譚」で、我が「南蛮漂流」の象徴でもあった。
「1998年/リスボン万博へ」
リスボン万博への招請打診の連絡は2回あったのだが、1回目はNGとなった。理由は予算の都合と聞いてはいるが、真の事情は定かではない。ところで当時の私は、その「NG」に関して言えば、残念ではあったが、何か遠い絵空事のようでリアルな落胆はなく(以下、話は急に卑近な私事に飛び恐縮だが)私の小中学校の同級生Nクンが「大将(オーナー)」の寿司屋で一杯やりながら、そんな「NGばなし」をほろ酔い気分でしていると、何とNクンの高校の野球部の親友Tクンが「リスボン万博のことをやっている」とかで、一度連絡を入れてみると・・・。結果、その筋が生かされて私どもは「リスボン万博」招請演奏となり、マリオネットのファンの方々約30名とリスボン万博ツアーを企てることになる・・・。果たして「青い鳥」たるキーマンは幼なじみの「寿司屋の大将」という奇縁だったわけで、大将の親友Tクンとパイプが出来てからは、あれよあれよという間にリスボン万博の会場に立っていた・・・。その間の実にドタバタした出来事や、リスボン万博会場での抱腹絶倒な珍事や出逢いなどは、今でも思い出深い事ばかりで「リスボン万博・同級生」とでも言うべき、緩やかなつながりが今もある。
「南蛮三大聖地LIVE」
表題の「三大聖地」という冠(かんむり)は、公的なものではなく、あくまで私的な物言いではあるが、日本人ポルトガルギター弾きの演奏場所としては、極めて辻褄の会う場所と言えると思う。まずは、マカオ「世界遺産・聖ヨセフ修道院聖堂」.ここはマカオ政府観光局音楽大使なるものをしていた頃、「マカオ観光」宣伝のためのPVで、フランシスコ・ザビエルの右腕の上腕骨の聖骸の前で演奏をさせていただいた。淡々とした制作の現場ではあったが、聖骸の入ったケースの高貴で静かな輝きは忘れがたい。長崎「世界遺産&国宝・大浦天主堂」は、長らくの「長崎」とのご縁から演奏の機会をいただいた。とにかく冬の寒い時期で、重要文化財たる建造物内では暖房がないため、終演後のお客様からの第一声は「よくこんな寒いところで弾けましたね~!」だった・・・。楽屋として使わせてもらった部屋の質素な古い棚にあった、原爆でただれたような小さな陶器の「マリア観音」像は、今でも印象深く憶えている。天草「世界遺産・崎津教会」での演奏は、2018年に「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」が世界文化遺産登録された際、天草市より記念曲「南蛮AMACUSA」の作曲を依頼されたことに端を発する。昨年2023年、件の「世界文化遺産登録」の5周年の際、私どもは天草日本ポルトガル協会のご招待を受け、天草で二日間演奏をしたのだが、その最終的ステージが崎津教会であった。崎津教会は畳敷きの和洋折衷の教会である。「ポルトガルギター」を「南蛮ぎたるら」と換言した我が身としては、その空間は少なからず瞠目に値し、「南蛮AMACUSA」の演奏時には、天井に抜ける柔らかい響きに包まれながら、摩訶不思議なデジャヴに戸惑いもした。いずれにしても、以上の「三大聖地」での演奏は、ご縁を頂戴したこと以上の稀なる奇縁がなければ可能ではなかっただろう。さても誠に有り難い巡り合わせに、我が凡才一塊は、光栄なる役目を賜ったことに深く感謝する次第である。
「我が30目の奇縁」
~「劇団民藝『泰山木の木の下で』にて、ギターを弾く男で出演」から
「南蛮Tryプロジェクト」へ~
「奇縁譚」と称して、つれづれに記してきたが、何とも思い出すことが多過ぎて、到底語りつくせるものではない。以下は、書こうとした表題のいくつかだが、「南蛮BVNGOマンドリンオーケストラと二階堂TVCM」「フェリー《さんふらわあ》の瀬戸内航路」「南蛮ボーダー」「TVとCDの季節を過ぎて」「原点の出逢い」「芸能界の片隅で」「新劇の広がり/劇団民藝&人形劇団プーク」etc・・・、紙幅にも限りがあるので、またの機会に委ねるとして、最後に私が現在たどり着いた奇縁の象徴的な仕事「劇団民藝『泰山木の木の下で』にて、ギターを弾く男で出演」と「南蛮Tryプロジェクト」について書かせていただき、本稿の筆を置こうと思う。
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▶ 劇団民藝の演劇「泰山木の木の下で/主演・日色ともゑ/作・小山裕士/演出・丹野郁弓」に、私どもMUZIC@NET/マリオネットは、「ギターを弾く男」役で出演させていただいている(実際にはポルトガルギターとマンドリュート)ここに至る経緯は、長らく日色ともゑさんの朗読とご一緒させていただいている歴史があればこそで、今回の「泰山木」への抜擢は様々な事情が抜群のタイミングで重なった僥倖なる奇縁であることには間違いはないが、しかし、その「タイミング」を得たのは、大げさに言えば「仕事」を自身の生き方に則するように心がけ続けてきた事が報われた「必然」と言えるかもしれないと自負している。この物語はヒロシマの原爆(ピカ)をめぐる話である。「ピカ」の問題は余りにも広範かつ深淵な為、私如きに語れる資格もないが、ひとつ言えることは先の戦争の「ピカ」以前と以後では、世界(あるいは地球)の様相は、まるで変わってしまい、今も私たちはその傘の下で生きているということである。そして、私は、「ピカ」という西洋文明が生み出した、この最も厄介な事柄を題材にした舞台作品で、歴史上は西洋文化を初めて日本に伝えた国の楽器「ポルトガルギター」を用いて、その作品のテーマ曲を弾いているのである。「泰山木の木の下で」は、この冊子が刊行されるころには、2021、22、24年の3年間で、全国81箇所169日間131ステージをこなし、国内10万人以上の方々にポルトガルギターの生演奏を聴いていただいたことになる。私が関わった単一の企画としては過去最大で、知りうる限り「生ポルトガルギター」の露出プロパガンダとしても最大規模と思われ、我が役目としては光栄極まりないが、自身の立ち位置の背景をどう読み込むかは、毅然とした考え方が求められよう。上記の「南蛮ボーダー」では、そのあたりを煮詰めようと思ったのだが、簡単に言えば「ポルトガルギター」の軸足を半分母国日本に置き、「guitarra portuguesa」を和洋折衷の「南蛮ぎたるら」として捉える視座の先にこそ、「悦ばしき未来」が可能と確信している。余談だが、泰山木という樹木の原産は北米南東部で、白い大きな碗状の花が上向きに咲き、成長すると20メートルの大木になることもあり、その形状はキノコ雲状である。また、泰山木は強い他感作用を有するらしく、他の植物の発芽や成長を抑制し、その樹冠下では植物が少ないことがあるらしい。花言葉は「前途洋洋/壮麗」である。劇団民藝「泰山木の木の下で」のメインの舞台装置は、無論「泰山木」を形どったもの で、生命力に溢れた枝葉を天上に茂らせている。ポルトガルギターのヘッドとも形状が似ているのは、微妙なシンクロニシティを感じる。ともあれ、劇団民藝の日本演劇史上の名作「泰山木の木の下で」での「ギターを弾く男」役の抜擢には、我が人生の奇縁が集積されていると言えよう。
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▶「南蛮Tryプロジェクト」とは、現在、私の「南蛮渡来」という曲に歌詞をつけて「歌」の曲に仕立てるプロジェクトのことである。ポルトガルギターとマンドリュートで演奏される「南蛮渡来」という器楽曲は、当初「清酒・沢の鶴」のTVCMとして使われ、後に「マカオ政府観光局」のテーマ曲としても使われ、また内外問わずマンドリンオーケストラでは、オケ用に編曲されたスコアがしばしば演奏がされており、私にとっての紛れもない代表曲である。また、この曲は、それ以降の私の「南蛮モノ」の楽曲スタイルの原点に位置し、いわば「南蛮ぎたるら」のエッセンスが凝縮されている(ちなみに、以降の「南蛮モノ」には、「南蛮Sacay(堺市より依頼)」「南蛮BVNGO(大分日本ポルトガル協会会長より依頼)」「南蛮AMACUSA(天草市より依頼)」「月下銀嶺(石見銀山文化賞受賞記念曲)「唐街雨情・作詞作曲(NHKラジオ深夜便/歌・グラシェラ・スサーナ)」「南蛮舞曲(大分銘菓ざびえるTVCM曲)「南蛮セレナータ(大分むぎ焼酎・二階堂TVCM曲)」etc・・・.)「南蛮Tryプロジェクト」は、現在進行中の為つぶさに開示はできないが、卑近な諸関係筋より徐々に濃度を高めてゆきたいと思う。ところで、私はささやかに「芸能界の片隅で」仕事をしてきたのだが、今や時代はかつての「TVとCDの季節を過ぎて」しまっている。さても「OZAWA」の頃は、その「季節」をいかに煌びやかに泳ぐかを求められ、だが正直なところ私はその志向には向いておらず不出来な「タレント」であったが、しかし「ポルトガルギター」という物珍しさもあったのか、CDセールスと露出はそこそこあり(CD総セールス枚数は7~8万枚ぐらいか・・・?露出は例えば「徹子の部屋」出演、「NHK名曲アルバム」収録etc・・・)その余波のお陰で、今の私どもがある。「南蛮渡来」という曲は、いわばその立役者で、今思えば、若い日の乏しい音楽ボキャブラリーで「しどろもどろ」で「カタチ(作曲=創作)」にし、情けなくも手探りで「南蛮」というキーワードを後付けすることで、まさしくその現場を生きる文化歴史や土地と奇縁を結び、そして、やはり「しどろもどろ」でその現場に学ぶことで、今日の自身の「南蛮」を何とか結像させてきた。歌の「南蛮渡来/南蛮Try(仮題)」は、その最終地点であり、また新たなスタート地点でもある。
「南蛮渡来/南蛮Try(仮題)」 作詞作曲/湯淺隆
1)
碧い海の彼方 夢を紡ぐとき
銀鱗躍動(ぎんりんやくどう)の船は東へ
愛の祈り深く 胸に刻むれば
勇往邁進(ゆうおうまいしん)のマドロシズムよ
ア~、空よ雲よ ア~、月よ星よ 我ら、ルジタノス 天命をゆく
日のいずる ZIPANGUよ 金色(こんじき)のドラゴン
ミステリオ ZIPANGUへ ユーラシア terra sagrada
ライララ ラライ~ ライララ~ ライララ~ 南蛮Try
2)
羅針盤が示す 神秘オリエント
天に帆を揚げろよ!風を逃がすな!
波を切る船首に 虹しぶきはじけ
胸のクルス光り 船は東へ
ア~、大地が終わり ア~、海が始まる 汝、ルジタノス 運命ひらけ
日のいずる ZIPANGUよ 金色(こんじき)のドラゴン
ミステリオ ZIPANGUへ ユーラシア terra sagrada
ライララ ラライ~ ライララ~ ライララ~ 南蛮Try