超過酷でも不満はなかった長野オリンピック・通訳ボランティアの思い出(前編)。
長野オリンピックのボランティアに、遅れて応募
私は20代のとき、1998年長野冬季オリンピックの通訳ボランティアを務めた。
大学4年生だった私。ボランティアに申し込んだのは、就職を控えた学生最後の冬の過ごし方として、「おもしろそう」という理由だった。急に思い立ち、オリンピック組織委員会に電話をしたら、「ボランティアの募集は、とっくに締め切っています。何年も前から楽しみにしている人もいますからね」と言われた。それでも、英語の資格などを聞かれ、「お願いするかもしれません。登録しておきますね」と言われ、その後、関西で開催された『通訳ボランティア事前説明会』の案内がきた。
一旦は、通訳ボランティアとして担当が決まったが・・・
通訳ボランティアには、外国語大学の学生や、仕事を休んでボランティアに参加するという外資系企業のOL、中には「毎回オリンピックの開催地に行ってボランティアを務め、今回は4回目。とうとう日本だ!」という日本人中年男性もいた。
会場で私が仲良くなった女の子は、ロシア語のボランティア希望者で、「フィギュアスケートのロシア選手の大ファンで、いつか選手と話すことを夢見て、大学ではロシア語を専攻している」と言っていた。
オリンピックの運営に関われること、通訳ボランティアに合格したことを、誇りに思っている人が多い印象だった。
オリンピックでは、多くの語学ボランティアが必要とされるが、会場担当、選手担当など様々。私は、「海外から来日するオリンピック委員会長(NOC)付き通訳ボランティア」に振り分けられた。通訳ボランティアと言っても、会長のスケジュールに合わせて一緒に行動する案内役、お世話役のようなものだと聞いていた。
後日、私はルーマニアのオリンピック委員(NOC)会長(女性)を担当することに決まった、と連絡がきた。
ところが、オリンピック開催の数週間前、組織委員から、「非常に言いにくいのですが。残念ながら、ルーマニアから来日予定だった会長が亡くなったのです」と電話があった。
私に与えられた選択肢は2つ。担当不明なのでボランティアを辞退するか、期待した役割がある保証はなくとも、とりあえず長野に行くか。
私は後者を選択した。
ちなみに、私たちボランティアは、長野までの交通費は自己負担、時給等の報酬はナシ、民宿やホテルの宿泊は無料、食事(お弁当)は支給、ユニフォーム一式は支給だった。
晴れて、オーストリアNOC会長のアシスタントに
長野に着いて、通訳ボランティアの控室に行くと、そこを仕切っていたのは、長野市役所の職員の方々だった。私は職員に、「来てもらってよかったです。オーストリアのオリンピック委員(NOC)会長が、すでに日本に到着して、早速、ドライバーとの意思疎通で苦労しているんです。来日前は『通訳ボランティアは希望しない』とのことだったのですが、『不便なので、通訳者がほしい』と言ってきたので、担当してください」と言われた。
各国のオリンピック委員会長には、トヨタから派遣されたドライバーがつくが(トヨタはスポンサーとして、ドライバーと車を提供していた)、ドライバーは必ずしも語学堪能なわけではない。オリンピック委員会長は、毎日、点在する競技会場に行って選手を激励したり、表彰式に参加したり、受賞者パーティを主催するなどを、車で行き来する必要がある。ドライバーとの意思疎通は、非常に重要だ。
また、競技を見逃さないためには、各会場に到着したら、すみやかに「VIP観覧室」に行く必要があるが、英語(または母国語)が通じる案内係がいるとも限らず、動線にとまどうことも多い。やはり、語学ができる付き添い(通訳ボランティア)がいた方がスムーズなのだ。
そんなわけで、私はオーストリアのオリンピック委員会長のアシスタントをすることになった。
そのことをボランティア仲間に伝えると、「おめでとう!冬季オリンピックの強豪国じゃん。うらやましい」と言われた。
実は、私はスポーツ観戦音痴で、冬季オリンピックで興味があるのは、フィギュアスケートぐらい。憧れの選手がいるわけでもなく、仲間からの祝福がピンとこなかったけれど、通訳ボランティアの間では、オリンピック強豪国や、メダル獲得数の多い大国を担当することは、誇らしいことらしかった。
強豪国の担当。それは同時に、通訳ボランティアにとって、過酷な労働を意味するということも、その時は知らなかった。
そこから1ヶ月。想像もしなかった、ハードな毎日が始まった。
(続く)