超過酷でも不満はなかった長野オリンピック・通訳ボランティアの思い出(後編)。
前編のつづき。
オーストリアNOC会長との日々
オーストリアのオリンピック会長のアシスタントになった私。会長は、オーストリアでカジノを経営する会社の代表で、いかにも大企業の役員という貫禄だった。
その日から、毎日毎日、会長と一緒に長野市内を移動する日々が始まった。だいたい、朝の7時にドライバーさんが私を迎えに来て、そのまま会長が泊まるホテルに向かい、会長を乗せて、競技会場へ。
彼が一番気にしていたのは、オーストリアの選手がメダルを取る瞬間、自分がオンタイムで競技会場にいられるかどうか、ということ。
オーストリアには、アルペンスキー選手のヘルマン・マイヤーはじめ、強い選手がたくさんいたので、会長は忙しい。「どの選手の競技が、どんな状況か」を常にチェック。「○○が、勝ちそうだ」となると、すぐにドライバーを手配して、その会場に移る。「もうメダル獲得はない」とわかると、さっと次のメダルが取れそうな会場に移る。
とてもシビアだなと思ったけれど、そんなことを繰り返していた。彼の判断に従って、ドライバーに連絡をしたり、会長がスムーズに行くべき場所に行けるようにサポートするのが、私の仕事だった。
毎日、日付が変わるまでパーティー
会長は、競技が終わったばかりの選手を激励すると、次の会場へ。表彰式にも出席。夜は、「オーストリアハウス」で選手達とディナー&祝賀会。
オリンピックでは、予算のある大国は、競技期間中、長野市内のレストランを借り切り、「○○ハウス」と名付け、毎日パーティをしていた。
オーストリアは、本国からシェフを連れてきて、食材も持ち込んでいると聞いていた。なので、祝賀会では、オーストリア料理やデザートがふるまわれた。
私たちボランティアは、遠慮して手を出さないのが基本だったけれど、会長が、包み紙にバッハのイラストが書かれた丸いチョコレートを、私にも持ってきてくれたりした。
オーストリアは、毎日のようにメダリストを出していて、みんなで乾杯。メダリストもほろ酔いで機嫌がよく、私も、ヘルマン・マイヤーはじめ、各メダリストと写真を撮り、ときにはメダルをかじらせてもらったりした。
帰宅はいつも、日付が変わってからだった。
なぜか、食べる・寝るなどの記憶がない
とても不思議なことに、ボランティアとしての仕事以外、どこでどうしていたのか、記憶がほとんどない。写真に写っていないことは、ほとんど覚えていない。それほど、毎日、クタクタだった。座るのは移動中の車だけ。
期間中、自分が何を食べていたのか、そもそも、食べていたのかどうかすら、全く思い出せない。お弁当が支給されるはずだったけれど、私は控室に戻る時間もなかったし、お弁当を手渡された記憶がない。
各会場で会長が通されるVIP観覧席では、軽食が用意されていたので、私もそれを摘んだりさせてもらっていたのか。民宿のテーブルのカゴに、りんごが入っていて、「自由にどうぞ」と書いてあったことは、覚えている。
お風呂も入っていたっけ?
和室に数人のボランティアと同室だったはずだけれど、布団は自分で引いていたっけ?
思い出せない。
同室のボランティアと会話をした記憶がほとんどない。いつも、すでに暗くなった静かな部屋に戻っていた気がする。
ある日、最初に自己紹介をし合った友達と、バッタリすれ違って「どう?」という話をしたことは、覚えている。
その彼女の担当は、ジャマイカで、「ボブスレーにしか出ない予定だったけれど、国から持ってきたボブスレーが一台壊れていて、直すこともできないし、みんなあきらめモード」「選手達も会長も、すごく呑気で、『観光したい』と言うから、今日も一緒に善光寺観光をして、ソフトクリームを食べてきた」と言っていたことは、覚えている。
私が「すごく忙しい」と言うと、「うらやましい」「まだ競技場には行っていない」と言われた。
それでもみんな、満足していた
会長を担当するボランティアは、VIP観覧席から競技を見れたり、表彰式の控室に入れたりする。私は、スキージャンプの日本団体の優勝の瞬間も真横で見ることができたし、有名選手との距離が「近っ」と思う瞬間もあった。
オリンピックのボランティアといっても、職種はそれぞれ。きっと、みんな色んな形の「ちょっと、おいしい」と思える体験ができたり、なにより、オリンピックに関われることが嬉しかったり、その人なりのやりがいがあったのだと思う。
それぞれ、「ちょっと」の何かをモチベーションに、楽しく役割をまっこうしているように見えた。
そもそも、みんな自分の意志=ボランティアで、「やりたい」と手を挙げて集まっている。どんなに忙しくても「ブラックだ」と文句を言っている人は、私の周りにはいなかった。終わったあとは、むしろ、「またやりたい」と、名残惜しそうだった。
オーストリアの会長は、最後に、自分が着ていた、オーストリア選手団の赤と白のウエアを私にくれた(大きすぎて、着れるわけではなかったけれど)。そして、私が長野から帰ってしばらくすると、お礼の手紙を届いた。「日本はとても良い印象だ」と書いてあった。レターヘッドには、彼がトップを務めるカジノ会社のネームが入っていた。
その手紙を見て、「夢ではなかったのだ」と思ったほど、本当に、私の長野での記憶は薄い。それほど、激務だった。それでも、オリンピック・ファンでもない私でさえ、「体験してよかった」と思えるほどの『オリンピック・マジック』が、そこにはあったと思う。