マイナス現実4(集中力向上委員会⑥)
前記事、マイナス現実3を踏まえ
話を
どう展開していきたいかと言いますと
定義付け、言語化の落とし穴について
もっと深く掘り下げていきたいのですが
改めて
定義付け、言語化のメリットとしてまず
もともと不明確であった何がしかを
固定化させることで
情報の共有のしやすさが生まれ
帰属的な感覚や反復の材料になる
精神性衛生上
例えば
病名がわからない苦痛より
病名がわかる苦痛の方がまだ安心できる
仮に
その病名が診断が間違いだったとしても
本質はまさにここにあり
これが人の心というもので
秩序を欲すが運命のようなもの
神の存在がより偶像化されていった経緯も
こういうことになるのではないか
・宿命本能とも取れるリスクもあり
遺伝上
とある病気にかかりやすい家系だと
認知してしまったが故に
その運命からは逃れられないと
人生を諦めてしまうケースも少なくない
しかし遺伝は
環境次第で多少は方向性を変えることも
可能であるということを知れば
定義付けからの解放を望めるというもの
つまり
秩序のための定義付け、言語化が
結果的には形は様々ではあるが
自身を縛り付ける足枷にもなってしまう
これこそが自己矛盾の一例であり
神の存在も
定義付け、言語化では“在り”得ない
・定義付け、言語化しないことで
ただただ浮遊し漂う
何がしかの感覚は
行動のみでしか表現できない
そして結果のみが事実となる
要は
自身が何で、何者かなんて
考えてもあまり意味がない
ということになります
どこかに本当の自分がいる
自分の居場所がある
このような
肯定的な期待の存在価値の探究こそが
詰まるところ、
足枷を生む最大の原因たり得る
そんな自分は存在しない
そんな居場所はあり得ない
否定でこそ
唯一多少の可能性の候補を見出せるのみ
時間が
単一方向にしか進まぬように
その流れの中での
行動と結果、
その動きのみでしか表せない
総じて
自身が存在する
故に
定義付け、言語の落とし穴とは
水たまりのようなもの
・こんな感じでどうでしょう?笑
最後まで
お読みいただきありがとうございます