音楽語りに公平性なんかいらない

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公平に音楽を聴くことなんてできない

音楽を聴いた感想などを書いていると、自分が贔屓して音楽を聴いているんじゃないか、公平性を欠いているんじゃないか、といった雑念が頭に浮かぶことが自分にはときどきあります。

音楽は物質的には誰が再生しても同じ音楽が再生されますし、聴き手も同じ人に固定されているならば、「どんな楽曲についても私情を捨ててフラットな気持ちで公平に聴くべきなのではないか?」という疑問がどうしても発生してしまうのです。

現時点の私はこの問いについて「音楽を公平に聴く必要などない」という主張を堅持しています(もちろんコンクールの審査員や音楽ライターなどは音楽を「公平に」聴く技術を求められると思いますが)。

理由は単純。公平に聴くことなど不可能だからです。

我々がどれだけ手を尽くしても、世の中に存在するすべての音楽を網羅して聴くことは不可能であり、我々がなにかの音楽を聴いている時点で、それが偶然の出会いであったとしても選択的に音楽を聴いているからです。

ある一定の範囲や基準を設けない限り、音楽語りは私的で公平性を欠いたものになものになるでしょう。であれば、音楽を語る時に公平性を確保するために基準を設けたほうがいいのでしょうか。

たとえば曲数に制限を設け、10枚のアルバムのなかで曲を比して語れば「公平性」を確保できるでしょうか。10枚の中から最も音楽的に優れていると思う1枚を探すこともできるでしょう。しかし、これは果たして本当に公平な音楽の聴き方なのでしょうか。

私はそうは思いません。公平に聴こうと思うとかえって順序をつけ、音楽同士を比べて聴くことになってしまう。どうにも矛盾のように感じてしまいますね。

こうしたことから私は音楽を公平に聴くことは不可能だと思っています。そんな考えは捨ててしまっていい。
それよりも、自分が出会った楽曲を大切にしていくことで、1つ1つの楽曲の良さに目を行き届かせることができるのではないでしょうか。

このような理由で私は音楽を公平に語る必要などないと強く思っています。好きな人・アーティストの音楽を語り、好きな作品の音楽を語り、好きなジャンルの音楽を語る。好きなように自由気ままに音楽を聴き、わがままに語るのがいちばんです。

「この曲はたまたま見つけただけで、よくわからんけど本当にサイコーなんだ!」
「このジャンルはめっちゃ踊れて元気になれるから、歌詞とかわからんけどめっちゃ好きなんだ!」
「このアーティストが大好きで、音楽詳しいことわからないけどどの曲もめっちゃクールなんだ!」

私はそれでいいと思います。あなたが「いい!」と思った感情そのものを大事にしてほしいと思っています。


共感的に音楽を語る


音楽を語るスタイルは無限に存在します。たとえば

- 楽曲のセールスを見る
- 作家の事務所で括る
- 演奏家で括る
- タイトルの意味での共通点を探す
- 同じ季節の曲を探す
- 特定のジャンルで絞る
- BPMに着目する
- 歌詞を深堀りする
- コード進行を解析する
- キー(調性)で比較する

などなど無限大です。どれも新たな音楽の楽しみ方が見つけられる、素敵な語り口です。

私はなかでも楽曲ごとに深堀りして共感的に音楽を語ることが好きです。

先述した「公平に聴く」なんて考えは捨て、自分の楽曲との出会いを大切にし、楽曲の聴体験をありありと語る。こうした非常に私的な音楽語りが、音楽の聴き手にはもちろん、時には作り手にも共感を呼び、果ては誰かと心のつながりを感じられることさえあることを、私は今までのやりとりを通じて確信しています。もしかしたら本当のところはそんなつながりは幻想なのかもしれませんが、私はそう信じているのです。

私は最近音楽を作ることが好きになってきており、少しだけですが作り手側に立って気持ちを味わうことを経験させていただけるようになってきました。

それは音楽をテクニカルに作るうえでの「あるあるネタ」を理解できるようになるのも部分的にそうですが、それ以上に自身が作り手側にまわって聴き手の方に感想をいただく機会ができることで、今まで自分が聴き手として味わい共感していた感情は、作り手にまわっても同一線上にある感情だったのだ、と理解できたことが大きいです。この知見は私にとって大きな財産になりました。

シンプルな例を考えると、あなたが曲を聴いて「かわいい」と思ったならば、作り手も「かわいくしたい」と思って曲を作っているはずなのです。なんだか当たり前に聞こえるかもしれませんが、どれだけ「かわいくな〜れ!」と思って作った曲であっても、それを「かわいい」と思ってもらえる必然性は存在しません。相当な離れワザであると思います。

作り手の気持ちを聴き手が受け取り、同じ気持ちを抱く。これは高度なコミュニケーションに他なりません。「おいしくなれ」と思って作った料理に「おいしい」と言ってもらえることはどれだけうれしいことでしょうか。

もう少し詳しく言えば、例えば聴き手のあなたが「この楽器がこういうふうに聴こえるからかわいい!」と思ったとします。
作り手側にたった時、聴き手にいただいた思いが全くの当て外れであっても、聴いてくれた人が思いを馳せて曲を語ってくれたことはうれしいに違いありません。もし作り手の意図通りであったら、その喜びは計り知れないでしょう。

このように、作る側と聴く側に分かれていたとしても、同じ気持ちで音楽に接しているならば、それはもはや「一緒に音楽した」と言うべき体験になるのだろうと自分は信じています。曲を作る・演奏する・聴く等、音楽において果たす役割は様々ありますが、そのどの役割を担っていたとしても、大切なのはその音楽の世界に浸って世界を味わうことだと私は信じています。

音楽を語るうえでもこの信念を忘れたくないな、との思いでさいきん思ったことを書き留めました。


追記

友人のイルリキウムさんが本記事に対して「お手紙」をくれました。私が言葉足らずで語れなかった懸念まで拾って付言してくださりました。氏の音楽語りについての思いも綴られており、感無量でした。ありがとうございます。


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