自慢するために書いているわけ。誰に?

2週間ぶりに早く帰れた。
体調はあまり良くない。
だるいとか、しんどいとかというよりは、喉の痛みと咳が少しでてきている。

仕事の大変さのようなものは、先週がピークだった。
今週はその名残がありそうでなさそうな、そんな感じである。

この仕事に慣れつつも、自分のやり方を少しずつ修正できている、といえるのだろうか。
まぁ成長している。と思い込むことはできている。

好きなアイスを買って、ドラッグストアを出た。
交差点に並んでいると、すごい勢いで後ろからパトカーがやってきて、一瞬自分が捕まったのかなと思ったけれど、隣の車だった。
何を悪いことをしたのかわからなかった。

自分だけじゃ無くて他も悪いことをしているじゃないか、といういいわけというか、言説がある。
まぁ気持ちはわかるし、平等じゃ無いと言いたい気持ちもわかる。フェアネスについて熱く議論をするタイミングも自分事としてそれを受け取れるタイミング・・・例えばそれで犠牲になるような、でしかないのかもしれない。
当事者意識を持つというのは、多くの場合が被害者である。
加害者側の意識を持つ、ということは難しい。
持ってしまったら何か、自分もそのまま罰せられるような気がする。

加害者側の気持ちを理解する、ということと、実際に加害するというのは大きく違う。けれど、その当たり前の線引きすら難しくしてしまうのが、被害感情なのだろう。
謝罪とか、許すといった営みの難しさもそこにある。

フラットな自分というのがおそらくは存在しなくて、何かしらの属性を塗りたくってしまう

そうすると、自分からでた感情ではないにもかかわらず、なんだか自分はいろんなことを考えたり感じたりしているものだな、と自他共に認めやすくなる。言葉を与えやすい。
言葉というのはもちろん僕たちが作り上げた物では無い。
その意味では母語であっても借用語になってしまう。
借用語、そうか。借りている。

どこかせせこましく、どこかよそよそしい、そんな気がする。
開き直ってみると、墜ちきってみると一体何が残っているのか。
物理的な身体は借りることができない。身体論。
この疲労感と共に、ぎくしゃく動いている指、身体。

ともあれ、それを統べているのが、このやっかいな賢い脳みそで、この問題は僕の意識が死ぬまで続く。
それは別に悲しいことでもなんでもない。

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