ノスタルジーを感じるのは、その時の感覚を忘れてしまったから。
今Eテレでよくわからないドキュメンタリーがやっている。
おもしろい。
カメラワークも、やりとりもカオスだけれど。
字幕がないから、いいなと思う。
引きこもりの人の話もでてきてる。
ただ、実際生活というのはカオスなものなんじゃないだろうか。
僕はきちきちっとできているわけではない。
仕事の時はある程度は仕方ないなぁと思いつつ、だらしない自分が嫌だなぁと感じている。
ということは、僕はきちきち族なのだろう。
ただ、きちきち族の中でも仕事が中途半端なんだろうなぁと思っている。
思うという言葉を最近使いすぎだと思う。
こうだ、と断言する力が弱くなっているのか、それとも物事の多様性のようなものに開眼してきたのか。
どちらでもいいかなと思う。どちらでもいいなら、どちらかを選択した方がいいとも思う。
思いっぱなしだ。
今思いついたのは、昔すんでいた家の近くの公園の横の駄菓子屋さん。
公園の横の道からすっといける。
店先には自販機があって、よくその下に小銭が落ちていた。
その小銭を拾ってうまいぼうを買っていた。
それは小学生の時の話だった。
中学生の時は同級生がハイチュウを配っていた。
彼は塾でハイチュウを友達に投げていた。
自販機で飲み物を買ったおつりを近くの民家に投げていた。
よくわからない。
彼はスポーツマンで、身長が高くて、中学生にして彼女がいた。
成人式の時に久しぶりに再会した。
僕より背が低くなっていた。
彼は僕のことを唯一あだ名で呼んでくれていた。
ふと、思い出せることは存外多い。
人生の中で僕が歩んでいた道のりだ。
ただ、それを今物語ろうとすると、うまく語れすぎている。
客観的な描写はできる。ただ、僕がそのときどう感じて、どう考えて、何をしていた、ということがすっぽり抜け落ちている。抜け落ちているというか、感覚だけがわからない。事実だけは残っている。そんな感じである。
だから、中学の時に部室でカードゲームをしていたとき、顧問に怒られたことよりも、同級生で仲の良かったキャプテンから信じられないという目で見られたことを今でも覚えているただ、僕がそのときどう感じたのかはあまり覚えていない。
ショックだったのか、情けなかったのか。
今物語ろうとすると、後悔の念という陳腐な表現が思い浮かべることができるが、多分何も感じていなかったんだろう。
何よりも語彙が足りなかった。