イカの塩辛を食べながら。
今日は一人で居酒屋に行こうと思っている。
山のように溜まった仕事は置いておいて、家の近くの焼き鳥屋にいこうと思っている。
今は帰りの途中で、若干雨が降っている。
少し前からカーナビが壊れて、カーナビ自体は使っていないもののBluetoothでラジオが聴けなくてげんなりしている。
スマホからそのまま流しているので問題はない気もする。だから直そうと思い立つほどではない。
日曜日に髪を切る。忙しいと言いつつ自分のスケジューリングが下手なだけで、時期も髪も伸びに伸びている。
髪型にはこだわりはない。
ないが、長くしたいと思っている。
長くするのは難しいらしい。似合う髪型にしてくれと頼むとどこに行っても短くされる。それも似合ってるとは思わない。でもすぐ髪が乾くのと、セットが楽ちんなのでこれでいいと思うようにしている。大人になるということは、これでいいと思えることが増えるということなのだろう。
カウンターに座り、生を頼む。生ビールとか言わずに、生と言うのがもうある程度の年齢を重ねてしまった気がする。ビールも昔は少し無理をして飲んでいた。中学生の修学旅行の時に無理をしてブラックコーヒーを飲んで寝れない時間を過ごしていた時と同じようなものである。そう考えると人間というのは成長しているように見えて、本質が何かはわからないものの、その本質とやらは変わらない。
居酒屋で働いている人は忙しそうである。
そんなに混んでいないが生を運ばれてから時間が経っている。
帰り道に書いていたこのノートを書き切ってしまいそうなほどで、でもそれが心地よい。
時間の使い方というものを再考する。
これを書き終わってももしまだ注文が来なかったら、最近買った東浩紀の観光客の哲学を読もうと思っている。
大学生の時ゲンロン ゼロを読んだ。内容はよくわかった。よくわかったがほとんど忘れている。再読をしようかと思っていた矢先観光客の哲学が発行された。本の方が好きだけれど、電子書籍で買った。持ち運びの点を考えると本よりも軍配が上がってしまう。
効率的、合理的、実践的、など。どれもこれも唾棄すべき表現だと思う。唾棄すべきなんて、僕は一体どこで学んだのか。
昔一人称を俺にしたことがある。うんと、今より小さい時、幼稚園ぐらいだったかもしれない。父親に叱られた。どこでそんな表現を知ったのかと言われた気もする。でもそんなことは問題ではない、と今でも父親の一挙手一投足に感じることを当時から感じていた。