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みたことのない歯ブラシ

つい半年前に会ったばかりの親戚達に挨拶をしていく。そのうちの一人である、私の曽祖母はいつ来ても変わらずそこにいる。94歳という年齢は、むしろ相応という言葉を忘れさせ、ただそれが当然であるように、容赦なくカニを食べ漁る。大きな毛蟹の足を八本、ミソもしゃぶる。つい先ほどまで腹を下していたという話は何だったのだろうか。何度も同じことを聞くが、指摘されても、それを嫌がらず、楽しそうにしている。血筋がそうなので、私も前に妄想したが、寂しくとも虚しくはならないだろうと結論づけた。似たような感覚があるのかもしれないが、しかし、それ以上のあたたかい感情が私には感じられた。

そんな中で、私はいつになく、ぼう、としていた。

足りないのは、心の余裕ではなく、単なるあたたかさだった、と今なら思う。今、父方の実家に私はいて、先日の在り方を反芻し、その味の薄さには驚いたもので、今日の私まで薄くなってしまった気がする。私が得意とする仕様もないボケも、本当に2回しかできていない。絶不調なのではなく、出し惜しんでいるだけだ。これまで自分を客観視し続けて、尚、私はまだ私に期待しているのだろうか。

手に握る青く太い歯ブラシは、オーストラリアで買ったものだ。歯ブラシを前のホテルに忘れ、新しいものを探していたが、ホテル近くの小さなマーケットにそれ一つしか置いておらず、値段も見ずに買うと日本円にして1000円を超えていた。ぼったくりだなあと帰国するまでの数日間、その歯ブラシをみるたびに感じていたが、今やどの歯ブラシよりも馴染んでいる。

あのとき、ぼったくられていることすらも、私は楽しんでいたと思う。値段をみて買っていたかもしれない。暇そうにドラマを見る母をみて、何かに追われることが自分には必要だと思い込んでいたが、案外そうでもないらしい。

進んでもいない手を止めてからは、祖母と紅白をみていた。東京事変のとてつもない紙吹雪に、二人して笑った。

2021年、歌詞を以て素直に元気付けられたのは、緑酒ほぼそれのみの覚えだ。

すべては、思うがままである。

遮光カーテンの繊維から漏れる太陽光。これを朝として、私には丁度明るかった。

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なまもののまま
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