停滞を嫌う
生活に停滞が生まれないよう、隙間無く生きている。
その習慣が先行し過ぎているのか、ものづくりに対する生来の性なのか(ここでの出生は初めてものづくりをした大学三年生の頃を指すのだろう)、作品に対する執着が人のそれよりも圧倒的に希薄であることに、度々気付く。
ミナノモノ第二『古‡良‡明日^』が上演中止になった。
理由は単純無慈悲で、私が罹患したため。誰も悪くないし、万が一誰かが悪かったとしても、中止に関して特に語ることはない。
語ることはない。そう、アッサリと違和感なく吐き捨てられるのは、開き直りでも何でもなく、本当に無いから。あの時に感じた感情をつらつらと並べても、何も起きない。何か起きてからでも、大抵、死にはしない。例えば、何かを語った先に、タラレバの話が顔を出した時、タラレバに後ろ髪を鷲掴みにされ、何も起きていない過去に足を引っ張られ、『映画クレヨンしんちゃん 夕陽のカスカベボーイズ』冒頭に出てくる馬に引き摺り回されているおっちゃんみたいになっている自分が容易に想像出来る。そんな暇があるなら、今日一日を心地良く生きて、他愛もない明日を愛するべきだ。そして、そういうことを常日頃考え、早足で書けたのが『古‡良‡明日^』なのだから、語ることはないし、語るべきではないと思う。
そうでないと、この本を書いた自分を信じず、愛していないことになってしまう。それだけは、駄目だろう。
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その上で、そうあるべきと納得出来ても、作品への執着が無いのは、やはり少し寂しいものがある。憧れにも近い。情熱を滾らせ、象印の湯沸かし器のように熱い温度を保つことが出来る人間に、今も昔も、長らく憧れているのだと思う。
それは、創作開始から五年が経とうとしている私には習得出来なかった人間性だったらしい。これからの私に期待だい(大)!
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妙に予定を詰め込みたがる自分がいる。
第二の延期を検討している今、それとは別の企画を走らせようとしている(元々走らせようとしていた)。客観視すれば、「妄りで、不誠実だなあ」とも思えるが、残念ながら、僕がそういう人間だというだけの話である。
執着が無い分、優劣が無い。第二の実現も、別の企画も、日々の生活も、全てを愛して止まない自分がいる。そういう妄りで躊躇のない自分を、私だけでも受け入れようと、必死で日々の隙間を埋めている。
忙しい日々に時折り訪れる無為が好きだ。考えなければならないことが渦巻いている中で、無関係でくだらないことを考えている時間が愛おしい。その時間を生み出すためだけに、人を巻き込んだ創作をしているのかもしれない。
この生き方を、働き始めてからも、良い塩梅で続けていきたいですね。そのために作ったのがミナノモノなので。
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ミナノモノの、システムの基準は「働きながら成立出来るもの」、コンセプトは「南亮哉の性質を活かすもの(南亮哉が参加者とも言えること)(南亮哉が居なくてもいい)」、下心は「南亮哉が人間に近づくこと」です。理念/理想もありますが、内緒です。これらコンセプト等は、日々の生活を経て、僕の考え方と共に変化していきます。凝り固まるのが一番嫌なので、ミナノモノは、都合のいいように変容していきます。
間近、第二の延期を検討します。多分、満足には出来ないけれど、どうなるかな。満足に出来ない方が楽しそうって言ったら、みんな怒るだろうな。がはは。
第一、第二の振り返り(ネタバレ含むかも)は、また別途書きます。ミナノモノの在り方について、最近考え直す機会があったので、こりゃ丁度いいや、と何となく暇つぶしに書いたnoteでした。
皆様、日々お疲れ様です。
挨拶をする隙が無かったので、雑に置いておきます。
それでは、また会う日まで。
ほんじゃま。