水仙の煩悩
令和3年2月。
夫と娘と、佐賀関にある関崎海星館に向かった。
ここの水仙が見頃を迎えているという記事を見たためである。
この関崎海星館を知ったのは今から6〜7年前じゃなかったかと思う。高校時代の友人、綾乃(仮名)の紹介で知った場所である。
当時、情報誌に載っているようなところは全て行き尽くしたと思っていた私であったが、ここは行ったことがなかった。
そもそも、佐賀関というところは海が綺麗で、「海水浴」のイメージが強い。その他の見所は特にないと思っていた。
佐賀関自体は、197号をひたすら真っ直ぐ進めば到着する。関崎海星館に行くには、そこから635号という道に入る。この道が、狭い山道で結構上に登る。天気の良い日にたまに行くくらいならいいが、通勤でこの道を毎日…なら泣くかもしれない。
登った甲斐あって、感動的な絶景と出会える。
こんなスポットがあったとは!
それ以来、この場所は大のお気に入りとなった。当時は、この関崎海星館の中に小さなカフェがあった。残念ながら、現在はやっていない。
この絶景を目前に啜るコーヒーは格別であった。
この時期の私は、友人と会う約束をした時、必ずここに連れて来ていたように思う。通いすぎて、カフェの店員さんと顔見知りになったほどである。
ここを紹介してくれた綾乃とも、その後何度か一緒に来ている。
綾乃は高校1年の時同じクラスで、入学した時たまたま席が隣であった。一番親しい友人というわけではなかったが、2年でクラスが離れてからも、連絡をとりあっていた。
高校を卒業しても、連絡を取り、たまに会ったりしていた。
綾乃はクラスでは決して目立つタイプではないが、とにかく器用に何でもこなせるタイプであった。英語、水泳、ピアノ…その他諸々、何でも平均以上に出来る。こんなに色々出来る子…チャキチャキした性格かと思いきや、マイペースでかなりおっとりしている。「お嬢様」という印象が強い。
そんな彼女は、昔から人間関係の悩みを私に漏らすことが多かった。
「女子の輪に上手く入れない」という内容である。
ーーだろうな。
あんなに器用に何でもこなすのに、人間関係については全く不器用なタイプである。
人間って面白い。
彼女から見て、私は女子の輪の中でかなり上手くやっているように見えていたらしい。
実際はそんなことはない。
私も彼女と同じである。ただ、「自分でない自分」を作れる。そこだけが、彼女より器用かもしれない。
そもそも仲良くなったのは、この「不器用さ」が共鳴したのではないかと思っている。
綾乃は私に、「女友達と何をしゃべっているの?」と聞いた。
そもそも、女がグループになると、大抵「人」の話をしている。あの人は今どうしているとか、この人とこの人が付き合っているとかいないとか。
ーーどうでもいい。
私も実は興味がない。
そして、こんな話題ばかりで繋がっていた輩とは、案の定、その後の人生で関わることはない。
ただし、合わせておいた方が何かと円滑。
私はむしろ、「合わせない強さ」、「確固たる己」的なものを持ちたかった。綾乃はそもそも、元来それを持っているように思う。
その性質に本人は何かと苦労したことも多いように察するが、その強さは生きていく上で一番重要なことではないかと思う。
さて、そんな私と綾乃が関崎海星館で何をしていたかというと、当時何故か編み物にはまっていた私に、綾乃が編み物を教えてくれていたのである。
彼女は相当手先が器用である。編み物等、何かを創作するのはお手のもので、売り物に出来るくらいの完成度である。
大人になってからも垣間見える多芸多才ぶりは圧巻である。
何を話したかはあまり覚えていない。
1つ面白かったのは、ある日彼女がいつものように同僚に「景色が綺麗だね」とか「あの鳥が…」とか話していると、その同僚から、
「アンタは本当に人に興味がねぇな( ゚д゚)」
と一喝されたという話。
その状況が容易に想像出来すぎて笑ってしまった。彼女らしい。
「人」に疲れた時、私は綾乃に会いたくなる。
彼女の世界観に触れると、この世は「人」が全てではないことを認識することが出来る。
煩わしすぎる「人間関係」というものを一時的に忘れさせてくれるのである。
それから綾乃とは連絡をとることがなくなってしまった。もう6年くらい会っていないことになる。あの時借りた、編み物の本をカリパクしたままである。
実は、この時期からほとんどの友人と連絡を取らなくなってしまった。
この頃、ちょうど齢30で、今後の生き方とか、自分自身についてとか、色々考えていた時期であった。
ーー本当に必要なモノとは、ヒトとは……
血迷った私は、自身のLINEのアカウントを削除するという奇行に走った。とんだメンヘラちゃんである。
これが意外にもスッキリして、自身に良い影響を与えたように思う。正直、困ったこともなかった。
水仙が無数に咲いていた。
花言葉は、「うぬぼれ」「自己愛」らしい。
その風貌からは、とてもそのような花言葉は想像出来ない。「清廉」とか「清潔」とか、その部類の言葉が似合う花である。
人も花も、見た目には分からない諸々の煩悩を抱えているものなのかもしれない。
現在、私の周りには本当に必要な人しかいない。ここ数年、ヒトもモノも随分手離してきたつもりである。
色々手離すことは、間違いではないと思っている。
しかし、ふと思う。
綾乃ともう一度、一緒にこの景色を見れたらなぁと。
この気持ちは、「うぬぼれ」かもしれないし、「自己愛」かもしれない。
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