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没後記念って倫理的か?

ーー偉大なる○○の没後XX年を記念して演奏/展示会を執り行うーー


大学で初めてバイオリンを触った。

幼小中で運動系であるサッカーを、高校で文化系である化学部を経験してきた。大学では新しいことを始めたくて、運動、文化ときたら次は芸術だなと思った。芸術の候補の中には、美術や写真、映画、小説研究会など択が多い中で音楽を、特にバイオリンを志してみた。

バイオリンを選んだのは、「ポルノグラフィティのサポートメンバーである、NAOTOさんが奏でるバイオリンに憧れたから」、「始める楽器としては普通ギター、ベースのところをバイオリンという世間の枠から外れたモノを始めてみたいから」という2点が大きかった。


俺が所属したサークルには年に2回開催される大きな発表会があるのだが、その曲選びをする中で必ず挙がる話が、「来年は○○が没後XX年記念があるから、みんな○○の曲やるよね」だった。


来年は○○が没後XX年記念があるから、みんな○○の曲やるよね

俺はこの文言への違和がずっとついては離れない。最初に”没後記念”という文言を聞いた際、
「えっ、記念なの?」
って思わず思ってしまった。

俺の中で没後記念という言葉は、
「○○さんが亡くなってXX年経ちまーす!!イエーイ!!それをぉ!記念してぇ!!○○さんの曲めっちゃ奏でまーす!!」
と、亡くなったのを祝福しているような、どことなく不謹慎なイメージを残す言葉となっている。


これまで音楽に、まして芸術系に一切触れてこなかった人生であった。何の知識もなかった俺を差し置いて、没後記念を中心に回る曲選考を全員が当たり前に進める。


没後記念という言葉に興味が没入してしまった俺は、そもそも曲の知識がなく発表会の曲選考の戦力にならないこともあって、
「没後記念 記念?」
「没後記念 失礼」
「没後記念 倫理観」
「没後記念 誕生記念 生前記念」
とgoogleに問い詰めていた。

没後を祝うという倫理観は合っているのか。
もっと違う言い方はないのか。
没後記念より誕生記念の方がいいイメージがある。


結論あまり分からなかった。自分の探索能力の低さもあるだろう。ただ、分からなかった。没後記念という呼称の由来も他の言い方も。

分かったことといえば、音楽に限らず美術、写真などで功績を残した偉大な芸術家には没後記念が必ずあることだった。
没後記念というのは俺が知らなかっただけで芸術系に属す人間には当たり前の表現だったということ。



それから数年。没後記念について自分なりに考えてはみた。

よって、ここから先は申し訳ないが全部俺の感想というか思想というか。ちゃんとした情報源はないただの妄想になる。しかし、没後記念に対して一つ自分の中で納得がいく説明を共有しよう。


まず、身近な没後記念について。俺は毎年墓参りに行きその人を偲んで、その人の話を中心に花を咲かせる。その人から生前戴いた品物ないし金言を今一度胸にしまう。
その故人が芸術家の場合、その芸術家の作品を飾ることだったり奏でることだったりすることがその人を偲ぶ手法として、最も一般的でかつ最も分かりやすいからである。そして、その偲び方の呼称が”没後記念”となっている。


そして、記念についていつもの如く広辞苑に問うてみる。

きねん【記念】
後々の思い出に残しておくこと。また、そのもの。かたみ。おもいで。

広辞苑 第七版(2023)

つまり、俺が持っていた記念=祝い事といういつ打ち付けられたか不明な概念は違うということになる。

記念とは単に残すために記録することなので、何も記念は常にハッピーではない。没後記念とは「故人の残した作品や思い出を偲ぶこと」という理解で俺は落ち着いた。


だから、没後記念は倫理的だし何も不謹慎ではなかった。不謹慎ならこんな現代で生き残るわけがないからな。




俺はいつ死んでもいいように生きている。なるべく後悔しないように。
本当は思っていた良いところを素直に褒めたり、会いたい人には積極的に会いに行ったり。次いでに感謝も忘れないように。死んだらありがとうって言えないからね。

他にも思い出を文字や写真に変換してSNSに残したり。気付かないうちに、俺はあらゆる方法で記念にしていたようだ。

このnoteもその一つ。


俺の没後記念に、俺のnoteを作品で展示会をして偲んでくれたらいいな。こういう人もいたんだって誰か一人だけでも笑ってくれてたらいいな。
そしたらすごく嬉しいな。
これ以上ない名誉なことだろうな。


あっ、マチアプとか女がどうたらとか変なのも記念しているわ。やっぱダメだ。
後世に残すにはあまりにも恥ずかしい。

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