【身の上小噺】誕生日に対する価値観
今日、誕生日の方はおめでとうございます。
各々が持つ特別な日。それが誕生日。
ただ、みんなは誕生日をどういう日だと捉えているのか。
もちろん貴方の誕生日は特別だ。この世に生を賜り今もなおどこかで暮らしている。それは誕生日があるからに間違いない。誕生日を貴方にとって特別な日と思うことは誰も疑う余地はない。
誕生日になれば家族や友人、恋人等から「誕生日おめでとう」と祝われる。素晴らしいことだ。
しかし、僕は誕生日に対しては世間一般とは異なった2つの気持ちがある。
まず一つ、僕にとって誕生日とは親にありがとうと伝える日であると決めている。誕生日があるのは親のおかげである。親がいなければ誕生なんてできない。こうしてnoteを書くことも誰かと話すこともなかった。
僕は今も幸せに日々を過ごすことができている。それは紛れもなく誕生日を設けてくれた親の存在があるからだ。だから、誕生日には親に「〇〇歳になりました。今日も変わらず幸せに過ごしてます。」と一言伝えるようにしている。
そして二つめ。これが非常に複雑な感情。それは「僕の誕生日を本当は誰にも教えたくない」という感情である。今記事のメインディッシュと言えよう。
第一に、僕は誰かの誕生日をお祝いすることは大好きだ。100%喜んでくれるからだ。最初にも述べた通り、誕生日とは特別な日という認識は僕も合致しているし世間一般的に鑑みても特別な日である。
誕生日が特別な日であることは認識しているので、友だちには積極的におめでとうって言ってあげたい。できれば多少のプレゼントも添えて。
しかし、いざ自分に矢印を向けたときはどうだろう。僕は幼少期から親以外に誕生日を祝われたことはあまりない。もっと言うなら、友だちに自分の誕生日を覚えられていたことが数少ない。
過去には、「誕生日いつ?」と聞かれ素直に答えていた。だが、今となっては誕生日は答えないようになった。答えたくない。
高校生のとき、友人に誕生日を聞かれた。当時はまだ素直に答えていた。そして、誕生日を聞かれた僕はどう思ったか。簡単だ。
「誕生日聞いてくれるってことは何か一言もらえるのかな!?」
とウキウキしていた。何もプレゼントなんかなくていい。一言だけ言ってもらえればそれだけでよかった。しかし、何もなかった。自分から今日俺誕生日なんだけど、、、とか言うのも違うし。ただ黙ってその特別な日とやらを過ごした。そこにあるのは、なんらいつもと変わらない凡な日常。
このような出来事は一回きりじゃない。もう何度も何度もあった。高校のこの出来事を最後に誕生日は簡単に口外しないと決めた。
ただ、問題は自分が過度に期待をしてしまうから招いているためであることを僕は自覚している。勝手に期待をしては勝手に裏切られる。もう疲れた。こうした感情に陥ることに嫌気が差す。
かつての自分は誕生日に祝われることを望んでいたが、小、中、高、大を経て今はその感情は無くなった。いや、厳密に言えば押し殺している。そんな過度な期待を持ちたくないため、誕生日は言わない。
だからこそ、友だちの誕生日は聞いたら絶対に祝ってあげたい。僕のような過度な期待感を過度にさせないために。僕はちゃんと覚えているよって、おめでとうと言ってあげたい。
今日、誕生日の人はおめでとう。今日くらい自分のことを労ってあげてね。そして、自分のことは自分自身がちゃんと大事にしような。
また来年にも会えるように。
君に幸あれ。