【身の上小話】ターニングポイント
ターニングポイントはそのときには分からない。後から顧みて初めてあのときがそうだったって気づく。
僕には明確なターニングポイントが一つある。それが小学五年生のとき。2011年といえば思い出したくもない人もいる、あの東日本大震災の年だ。
少し長くなるが僕のターニングポイントの背景としてあった、東日本大震災の話をしよう。
僕は生まれは福島で、当時の東日本大震災の渦中にいた。
2011年3月11日の金曜日。14:46。
この日は小学四年生から六年生までの高学年が校舎の前で集まり、集団で下校するという日だった。そしてこの時間はまさに校舎の前で集合してる真っ最中だった。
突然だった。大きな地響きと共に経験したことのない地面の揺れ。一斉に鳴る先生方のスマホの緊急地震速報。震度でいうと6強が2分程度続いた。
当時小学四年生だった僕は、甘く見ていたのか友人たちと「この揺れでどんだけ立っていられるかゲーム」をやっていた。ものの数秒で転ぶほどの揺れで、先生方も生徒をその場に落ち着かせることだけで頭がいっぱいだったようで、必死な先生方を余所眼に遊ぶ僕らを叱ることもなく「近くにいなさい!!!」だけだった。世情を知らない僕は暢気だった。
揺れがようやく収まり、先生方は一斉に連絡網で保護者に連絡して保護者が来るのを待つ。現場は騒然としていて、何をすればいいのか分からなかった僕は待ちぼうけだった。
地震が収まってからしばらく経ったとき、当時小学二年生の弟が手に固定電話の子機を持ちながら校舎に来た。僕らの家は小学校と徒歩5分圏内に位置しているのですぐ来れたようだ。弟が、
「電話持ってきたんだけど、お母さんにつながらなくて・・・」
と言っていた。それを聞いた先生が、
「子機は親機と離れているとつながらないから、これだけ持ってきても意味ないのよ。でも一人でよく頑張ったね。」
と宥めていた。弟も必死だったんだろう。そういえば、あの大きな揺れのとき、家には弟一人だった。
とりあえず、僕ら兄弟は近場だったこともあり一足先に家に帰る許可を先生にもらった。家に着きドアを開けると朝とは同じ場所とは思えないほど荒廃していた。食器棚は倒れ、陶器は割れ、タンスは崩れていた。この中に弟は一人だったんだと思うと、マジ強いなこいつと思った。妹は保育園で悠々と遊び、母親は職場だったが足早と帰ってきた。
電気、ガス、水道は全部止まった。復旧は電気が確か一番早く三日くらい、ガスが四日、水道が一週間強。
水道は長く停止していたため、近くの公民館で水の配給をしていた。水を求め多くの人が列を成し今か今かと待っていた。もちろん僕も列を成したうちの一人。二時間は待っただろうか。もうすぐで自分たちの番だと思い安堵したその刹那、オバちゃんが小学生の僕を押しのけて無理矢理列に入ってきた。
このときの記憶は全てに色を付けて思い出せるほど今でも鮮明に覚えている。あの必死な顔も、周りの喧騒も、静かに見守る木々の青さも。信じられなかった。人間は生きるのに必死になるとこんなに醜くなるのかと思い出す度に気持ち悪くなる。正直、震災の記憶を掘り起こす毎にこのオバちゃんが出てくる。ある意味トラウマなんだろう。
東日本大震災における福島県の被害は地震や津波以上に原発事故の被害の方が大きい。津波の影響で福島第一原発で一号機が爆発した。あまりにも有名なので事故の詳細は省く。爆発事故で有名な福島第一原発の12 km近くにもう一つ原子力発電所がある。名は福島第二原発。
そして僕の父はこの福島第二原発に勤めていた。
震災の最中もその後もずっと第二原発の対応に追われており、一週間近く帰ってこなかった。帰ってきて早々支度を始め、千葉にある祖母の家に暫く避難すると言い、僕たち家族を一早く安全圏に連れて行った。誰よりも休みたいだろうし、きっと被爆もしてる。しかし、家族を優先しその判断も早かった。父はこういう緊急時の判断は尋常でないほど的確で早いし迷わない。ものすごい憧れる。
しばらく余震も絶えない中、福島の小学校で授業が再開したとの連絡が入った。ゴールデンウィーク明けに登校するために、2ヶ月居た千葉から福島に帰った。久しぶりの地元の道は綺麗に舗装されていて震災があったとは思えないほど元通りだった。
無事に登校し学校生活も順調だった。8月頃、父からある知らせを受けた。
「新しい仕事が決まりそうだ。東京だ。お前たちはどうしたい?」
つまり、このまま福島に留まるか東京に引っ越すか。ここが一番のターニングポイントだと確信している。
福島にいる友だちが好きだったから福島に残り続けたいという選択を断固として取り続け、父とも離れたくないという我儘を言い続けていた結果、全員が福島に残るという道を選んだ。その道を辿ったのが現在のnoteを書いているナマケ。
~~~もし、このとき東京に行っていたら~~~
まず中学で初恋の人に会うこともなく、違う人を好きになってもっと真っ当な青春だったかもしれない。
初恋の人に「楽しい人が好き」と言われないから、今よりもっと楽しいことを考えなかったかもしれない。
逆にもっと楽しい人間だったかもしれない。
今の高校の友だちとも会わないから、高校での思い出と同じようなことをしていたかもしれないし、していても今あるアルバムの中の写真は全部違う人で構成されている。
ナマケという渾名もないだろう。
大学も全く違うところに行っていたのかもしれない。
今よりももっとエリートかもしれないし、今よりももっと底辺だったかもしれない。
もしかしたら今仲良くしている人とは出会えてもないし、別の形で会っているのかもしれない。
そういう可能性があったって話。でもこの選択で良かったと思っている。会いたいと思える人に会えている。
ただ、今思う会いたい人を会いたい人と認識しているのは今の世界線での話。パラレルなら、別の人を会いたい人と思っていて、今思う会いたい人を会いたい人と認識してない。酷く嫌っている可能性もある。
そんな全てのIFを心に押し込んで、自分が取った選択肢が正解だと思えるように何とかすること。何とかするんだ。
そうだ、今度はあのときに東京に行く選択肢を取ってみるわ。そして、またみんなに会えるように頑張るわ。パラレルワールドでもよろしくな。