【岩手】平泉で芭蕉、義経と出会う
2021年の秋。
東北の秋は極寒だろう、と意気込んでダウンを着た。
しかし地元民は薄着で、秋コートを着ていた。
完全に浮いていたと思う。寒冷地での観光客との見分け方は、厚着か薄着かで分かるんだなと学んだ笑
平泉までは、まず東京駅から新幹線で一関駅へ。
そこから在来線に乗り換えて平泉駅へ向かう。
平泉はレンタサイクルが整備されており、とても観光しやすい。
平泉の歴史
教科書にも少し出てくる。平泉といば、奥州藤原氏が3代にわたり治めた場所。平安〜鎌倉時代。
当時、平泉は金がたくさん採れた。だから平泉はとても栄えて豊かとなり、その経済力は当時の朝廷が警戒したほどらしい。お金がたくさんあると兵力や武器がたくさん取り揃えられるから、朝廷へ刃向かうのでは?という恐れもあったとか。
しかしそんな豊かな時代も長くは続かず、最後には頼朝から逃れた義経を匿っていたことで色々とゴタゴタがあって、滅んでしまう。(藤原家の家臣からの裏切りもあったかな?)
義経は青年期に平泉で過ごしていたこともあり、頼りにしていたのだろう。
奥州藤原家初代の清衡は、東北で長く続いた戦乱で亡くなった人たちを弔うため、中尊寺を建立。また、2代目の基衡は庭園が美しい毛越寺を建立。極楽浄土をイメージして作られたとか。
奥州藤原家の詳しい歴史は、以下の公式サイトで分かりやすく解説されているので是非。
と、前置きが長くなった。
そういえば平泉は世界遺産だった。
まずは毛越寺へ
平泉駅から電動自転車で7分くらいかな。
中尊寺へ
入り口のすぐに月見坂という坂を上がるのだが、
勾配がとんでもなくて、見ているだけで戦意喪失…
高舘義経堂(たかだてぎけいどう)
中尊寺の参拝を終えて、義経が最期を迎えた場所と言われる義経堂へ向かった。
義経堂のお堂もあったけど、なぜか写真を撮ることを躊躇してしまった。
義経の木像?色は付いているのだが、その威圧感に負けて、なんとなく「これは写真を撮っていけない気がする…」とビビっていた記憶がある。
そして松尾芭蕉がここへ来て、俳句を詠んでいた。
なはまげ太郎はそれを知らずに来たが、
これまで奥州藤原氏の栄華と衰退、そして義経の最期を学んでここへ来たからこそ、身に染みた句であった。
この景色を見ると、かつてはこの地には豊かで栄えていた都市があったのだが、それはもう衰退して今目の前にはない、武士たちの夢見た痕跡だけがある、そんな風に感じた。
というか、俳句というたった17文字にそれを込めることができた芭蕉ってすごくない?と、俳句の奥ゆかさに感動した。
そして俳句は後世で読む人次第で解釈が変わるだろうし、あえてその余地を残しているんだと思う。
白黒ハッキリすることが良いこととされているが、あえて曖昧さを嗜む文化は日本らしいと感じた。日本語の美しさだよね。
そして今後、芭蕉は旅するとよく遭遇するようになり、ストーカーのような存在となる…笑
※なまはげ太郎が行く先に、よく芭蕉像があったりと偶然見ることが増えた。愛称「ジジイ」と呼んでいる
達谷窟毘沙門堂(たっこくいわや びしゃもんどう)
本来は自転車で行く距離ではない。
平泉駅から片道4kmもある。往復8km!
自転車に乗り続けているとお尻が痛くなり、
立ち漕ぎしないとお尻がもたない。
いくら電動自転車とはいえ、足を漕がなければ進まない。あくまでも発進、坂道を多少アシストしてくれるだけである。
平泉駅へ戻った
観光を終えて、平泉駅へ戻った。
このプレハブの中には大量の電動自転車があった。
平泉は自転車で周るには整備がしっかりされており、
サイクリングマップも用意されていた。
余談
なはまげ太郎はポケモンGOをやっている。
電車の待ち時間でレイドバトルがあったので、
伝説のポケモンがほしくて参加した。
遠隔で遠くにいる友人をバトルに誘うことができ、
ダメ元で東京にいる友人を誘ってみたら参加してくれた。
でもその友人がなまはげ太郎の現在地に驚いて、連絡をしてきた。
友人「え?今岩手にいるの?どこからバトル誘ってきているんだよ笑」
なはまげ太郎「そうだよ。これから帰るけどね」
友人「え?日帰り?!」
岩手は新幹線があるので、場所によっては日帰りが余裕なのである。
平泉では芭蕉、源氏(主に義経)をもっと知りたい、と思ったきっかけの場所。
そして平泉にはまた行ったのである…笑
その記録はまた今度。
平泉の旅記録は以上