いじめの被害体験について
以下の文章は10年前大学の人権について扱う授業にレポートとして提出したものに手を加えた文章です。
noteに昔載せていたので原稿がこちらにあり、手直しして発表しようと思いました。
実体験による校内暴力、家庭内暴力の生々しい描写があるので過去の辛い経験がフラッシュバックする方がいるかもしれません。無理をして読むことはなさらないでください。
これは私が関東のとある中学に18年から21年まで通っていたころの体験と、それにまつわるそれ以降の出来事です。
一年生の頃の水泳部でのいじめ被害、二年生の頃のクラスでのいじめ被害、その後のこと、目撃した他人のいじめ被害のことが主な内容です。
1、 中学校について
中学は生徒数が多く、私の時は1学年に40人学級が9組までありました。
粗野で荒くれた学校として知られていました。特に私の代は校内暴力が酷かったと思います。
そのためか、教師は校則で生徒をがんじがらめにすることにやっきになっていて、髪の毛をワックスでセットしていった男子が押さえつけられて水道水で頭を洗われているところを目撃したことがありますし、制服の着崩し、女子の透明マニキュア等どうしようもないくらい些細なことにも過剰に厳しかったです。
生徒が反抗的にならないよう、教師が無理やり抑圧し管理しようとし、ますます生徒は反抗し殺伐としていく、という悪循環でどんどん全体が破綻していきました。
三年間通う中でいじめ以外にもたくさんの問題が生徒側にも教師側にも起こりました。どのクラスにも常に2、3人学校に来ていない生徒がいて、いじめは慢性的に起こっていて、授業は妨害され、教育機関としては一切機能していませんでした。
生徒によりグランドピアノが破壊される事件や、実験用の薬品が盗み出されて撒かれる事件もありました。
精神疾患になって休職する、教師自体を辞める、生徒に暴力をふるって処分される(私が所属していた水泳部の顧問、ほか二名)、生徒に対する性犯罪で懲戒免職になる(私の三年生の頃の担任)等のことがありました。
書いていても未だに中学にまつわることがらがなんだったのかよくわからないのですが、とにかくわけのわからないままこういう壊れた場所に通っていました。
2、 水泳部
学校全体がスポーツに力を入れていて、入学してすぐ私が入った水泳部も強豪でした。
カリスマ的な顧問がいて、誰もがその人に服従する軍隊のような体制でした。
屋外のプールで活動していたのですが、体育などでは水温と気温を足して50度というのが屋外プールに入って良い基準とされているそうですが、水温が20度あれば死なないという顧問の方針のもと、五月から十一月まで、天候に関わらず、雨でも冬でも外で泳いでいました。
生理になった女子も、熱を出した人も、顧問に怒られることやほかの部員に蔑まれることを恐れほとんどの場合練習を休みませんでした。
部員はそうやって毎日4キロ~8キロ泳ぎ続ける生活を送るため当然タイムは伸び、ほぼ全員が県大会に出場し、全国や関東に進出する部員も続出しました。
功績で何もかもチャラにして、顧問の性格の異常さを誰もが問題にしていなかったのですが、実はその顧問は以前自分の言うことに逆らった生徒を誰もいない部屋に連れて行きボコボコに殴ったことがばれ、一年間懲戒になったことがある人物でした。
私がいた頃も、いきなり怒鳴る、物を投げるなどは日常茶飯事でしたが、それでも部を強くしている功績があるし、練習が終わると全員にお菓子を配ったり、店に連れて行っておごりでなんでも食べていいと言ったり、女子の誕生日に花束を贈ったり、アメとムチを使い分けるのが上手かったので、私も含め、部員は彼を厳しいけれど優しいところもある先生だ、くらいに思っていたと思います。
閉鎖的で外部の目から遮断されている集団の中にいると、あからさまにおかしい人物をまつりあげていても誰もブレーキをかけることができません。
中学生の集団を騙し通しコントロール下に置くことなど、狡い大人である彼にとって赤子の手をひねるようなことでした。
そんな異常な顧問のもとでやっていたら部の全体に歪みが生まれるのは必然です。
上級生は顧問の手下状態になって、溜まったフラストレーションをしごきと称して後輩にぶつけ、下級生は下級生で同学年や弱そうな先輩を徹底的に虐め抜くことでガス抜きしていました。
私はそういうところだと知らずに入ったので、完全に練習についていけず、また、周りの戦時中と体育会系ノリを混ぜたような空気に完全に適応できず、入って一週間くらいでいじめの標的になりました。
無視、靴隠し、カバンに草を積められる、怒鳴られる、睨まれる、バイキン扱いされる、あげていくと、子供っぽく見えることばかりですが、過酷な練習を続けつつ、10人もいない女子部員の輪の中で、先輩や同級生がこんなだとあっという間に情緒も体もおかしくなります。
また、男子からは暴力系のいじめを受け、蹴られる、殴られる、尖ったものを刺され腕から出血させられる(まだ跡がある)、Tシャツの上からプールの水をぶっかけられて下着を透けさせられる
(これも一見バカみたいですが、無邪気なようでいて性的なものと暴力性が入り混じった感情を向けてくる男子は脅威でした。
今でも身近な男性がすこしでも暴力的なところや支配的なところを見せると物凄く不安になる。)
酷い場合は人がいない
狭いところで押し倒され体を触られそうになる(中学一年生だから、男女の体格差が
それほどなかったことが幸いし、なんとか無理やり暴れて逃げたが、あれは今思うとレイプ未遂か?)等、悲惨な目に遭いました。結果、対人恐怖で人と喋ることが困難になり、体力も限界で、二ヶ月くらいで顧問に退部届けを出しました。
しかし、顧問に個室に呼び出され、退部の理由を問われ、いじめと練習で限界と答えたところ、まったくまともに受け取ってもらえず、「いじめがあるというのはお前の間違いだろう」とか、「友達ごっこのために部活があるのではないのだから、仲が良い人がいなくたって練習を続けることだけ考えて耐えろ」とか、そういうふうにつっぱねられました。
顧問から強い口調でそういうふうに言われると、疑問を感じるまでもなくそれを信じ込んでしまい、私は自分が悪いのだと信じ込み、部に残りました。
マインドコントロールされている状態にどんどん近づいていき、顧問が理不尽なことを行ったとしてもすくみあがってしまい、顧問を前にすると冷静な判断力が失われてしまうのです。
それでもその後も何回か限界だと思う時が来て、いちいち退部届けを出したのですが、顧問の独断で結局一度も受理されませんでした。
その後、練習を続けていくうちタイムが伸び、リレーのメンバ-に入ったことから部内でのヒエラルキーが上がり、私への酷かったいじめはパタッと止んでしまいました。
一年生の終わり頃です。
あまりにあっけなくてさすがに気味が悪かったです。
今まで自分をいたぶってきた人が、今までのことは何もかもなかったことにして擦り寄って来て友達ヅラをし始める感覚がさっぱりわからないので私の人間不信は悪化しました。
しかも、誰かをいじめる側のメンバーに私も入れられそうになりました。
スケープゴートが私ではなくなっただけで、いじめはなくならず、標的が短いスパンで
移り変わって、常に誰かを血祭りにあげていないといけないというふうになっていきました。私をいじめていたメンバーの中から新たにだれかがいじめられるようになり、またいじめの対象が移り変わり、そうするといじめられた人もまたいじめる輪に復帰し、というような、信頼関係は一切無い、壊れていて、殺伐としていて、完全に無意味な人間関係です。
一緒に○○の靴に画鋲をいれに行こうとニコニコしながら楽しげに誘われて、その場のノリにあらがえず一緒について行って、加担もしないが、こういうのは好きじゃないとは言ったもののただその場につっ立って一部始終を止めずに見ていたこともありますし、あいつむかつくからカバンの中にジュース注ごう、とその場のみんなが盛り上がっているところも見て見ぬふりをしてほったらかしにしていたこともあります。
無力感と虚無感で、だんだん感情がわかなくなることも多くなり、とにかく精神的に疲れていきました。
結局同学年は一人が不登校になり、一人が故障といじめによって退部、いじめることといじめられることを延々と繰り返していた、とりわけ人格が破綻しているように思えた人も情緒不安定になり退部、みんなその後どうなったかは知りませんが、思春期前期をこうも酷い過ごし方をして穏やかに今頃暮らせているのか、みんなどんな大人になったのか怖ろしいです。
幸い、二年生からは大人しいタイプの男子や途中から入部した女子と、なんとなくゆるい連帯が築けたので殺伐とした人間関係の輪からは外れることができたし、顧問も途中で移動になり、顧問がいなくなると軍隊っぽさは解体されていったので、後半は淡々と練習する穏やかな生活を送りました。それでもなおいじめられていた頃の記憶ははっきり残っているし、今でも回復してきているとはいえこの経験がきっかけとなって生きていく上での基本的な人への信頼感がゆらいでしまったと思っています。
ちなみに顧問は別の学校に移ったあともそこの弱小水泳部を強豪に育て上げ、中体連の水泳大会などでも役員をしていました。
3、 二年生のクラス
一年生の頃に、部活内で酷いいじめに遭ったので、二年生になりクラスで新たな人間関係を築く能力や気力が奪われていました。
なんとか地味で大人しいグループに潜り込みましたが、私が全然人と話せなくなっていたことでぎくしゃくし、すぐに一人で行動するしかなくなり、参考書と本を眺めて時間をつぶしていました。
派手なグループが地味なグループを徹底的に見下すような序列ががっちりあるクラスだったために、地味系の人がすこしでも目立つようなことをすると一斉にバッシングされるような空気がありました。
私は単独行動ということで揶揄されたりしましたが、一学期の時点ではぎりぎりいろいろなグループの人と細々とコミュニュケーションをとるなどはしていて、いじめの対象にはなりませんでした。
ただ、一学期の時点で多くのグループで人間関係のいざこざが相次ぎ、いじめもおこり、三人の生徒が学校に来なくなっていました。
また、男子の間で行われた悪質ないじめですが、いじめられっこを押さえつけて好きな女の子の家に電話をかけさせて、オナニーさせながら告白させるというものがありました。
そういうことをやったといじめの主犯格が休み時間の教室の中でゲラゲラ笑いながら大声で話していたのを聞きました。
誰にでも聞こえていたはずなんだけれど、教室が静まり返るということもなく、何事もなかったかのように聞き流されました。その被害者は、いつもサンドバッグにされたりいじめられたりしながらもヘラヘラしながらいじめるグループの後ろの方にくっついている人でした。
もう抵抗する気が無くなっているのか、なんなのかわからないまま心が壊されていたのかわからないけれど、見ているだけで痛々しかったし、心配でした。
教員にいじめがあると話しても、遊んでいるだけだと流されました。
クラスは限度を超えた悪ノリで毎日が馬鹿騒ぎで、授業も妨害され、どの教科もまともに学校で教わった記憶がありません。
勉強ができる生徒は早くから塾に行き学校ではさぼるし、不良ははなから勉強しに来てはいないので、誰も聞いていない授業をやる教師はどんどんすさんでいき、辞めたり休職したりした人は数人いたし、生徒を殴って処分された人もいました。
二学期に入って、私はクラスの輪を乱したということでいじめの対象になりました。
バスケ部の部長をしていた派手な女子と同じ委員会を希望して、担任が気まぐれを起こし、バスケ部の方より私のほうが成績がいいからその委員会は私にやらせる、とアンフェアなことをクラスの全員に言ったのです。余計なことをするなと担任の教師のところに言いに行き、このクラスの状況を考えると、多数決をとるわけでもなく役職を決めたらみんな私のことをバッシングし始めるだろうから、そんな贔屓みたいなのはやめてくれと訴えたのですが、その鈍い教師はよく意味がわかっておらず、きょとんとしていました。
私は地味で浮いてるのに、教師に贔屓されながらバスケ部部長に歯向かった、ということになっていて、その出来事があった次の日くらいから、目立つグループの女子が私の机の周りにいろいろなクラスから休み時間ごとに集結し、黒板消しではたく、髪の毛を引っ張るなどマンガちっくでもあるあるベタないじめを始めました。もちろん嫌だったけれど、そっちよりもむしろ、私の巻き添えを食って目立つグループに目をつけられるのを嫌がって、普通に話していた人にまで避けられたのが辛かったです。
今まで仲良くしていた少数の女子からもさん付けで呼ばれて距離をとられ、しまいに無視、遠巻きに悪口を言われる、男子からは、隣の席になるだけで舌打ちされるなど、陰湿ないじめといやがらせの境の、悪意による攻撃を受けました。
コミュニュケーション操作型というか、地味なことの積み重ねで心をじわじわ折るタイプのいじめに対してなすすべはないし、一年生の頃からずっと人間不信と対人恐怖は続いていたので、ついに体を壊すようになり、頭痛や腹痛で学校に行けない日が多くなりました。
3親との関係
親には、水泳部の時もクラスの時も、いじめられたらすぐに自分の状況を説明して
SOSを出していました。会話することも多いし、親は自分のことを理解してくれるはずだ信じ込んでいました。ただ、今思うとそれはまったくの思い違いで、うちの親は、学校は必ず行かなくてはいけないところだ、と固く信じていて、なぜ学校に行かないといけないかなどは重要ではなく、とにかく子供が学校に行かない場合は殴ってでも泣いてでも通わせる、という考えの持ち主だとだんだんわかって信用できなくなりました。
「私は成績がいい方だけどそれは自習しているからであって、学校で勉強しているからではない、中学では授業が行われていない、行く必要がない
いじめられに通っているようなものだから今年は学校に行きたくない」
というそれだけのことが何回説明しても全然通じなかったのです。
私が学校でいじめられていることよりも、学校に行かない事の方が親にとっては問題でした。父はことなかれ主義で、学校に行けと言うだけでしたが、
母がものすごく嫌味を言ってくるようになりました。
死にたいとつぶやいたら勝手に死ねと言われたりもしました。
もともとうちの母は理屈で物事を考えるタイプではないのですが、私が落伍しそうだという危機感からかますます感情的になりしまいには私がストレスで体調を崩して学校を休んでいることを知っているにも関わらず、泣きながら殴ったり蹴ったりしてくるようになりました。
ある日学校に行くまでは絶対に殴り続ける、と言いながら延々と殴られたことがあって、
そのときは本当に死にたくなりながら学校に行きました。
遅刻して教室に入ると、なんで来んだよとひそひそ話す声があちらこちらから聞こえ、絶対泣かないと意地を張るのも限界で、その場で泣いてしまい、結局次の時間に家に帰ったのでした。家にも学校にも敵しかいないということについに耐えられなくなり、次の日からは、母が殴ってきたら殴り返すようになりました。暴言も吐いたし、家具も
家電も破壊して、自傷するようにもなりあとは放心状態で過ごしていました。
さすがに親もまずいと気づいたのか、かなり嫌そうではあったものの二年生の間だけだと念を押し、不登校を許可しました。
今でも、母は、私が不登校になったときどれだけ辛かったかという愚痴をこぼしたり、笑いながらあの頃の私はぐれていて本当に手をやかされたなどと言い出したりするので何もわかってはいないのだなと思います。
家族とは話もするし、険悪ではないけれど、何か問題が起こっても頼りにしたりはできないし、心の奥底ではまったく信用していません。
4、 不登校
どのクラスも似たりよったりの殺伐とした状況にあったため、学年中の不登校生徒はかなり多く、それだけでひとクラス作れそうなほどでした。でも対策はほとんどとられておらず、一度担任の教師に別室登校について尋ねたところ、一人だけ特別扱いできるはずはないし、学校に来られるなら教室で授業を受けなさいとどうしようもない答えが返ってきただけでした。
また、いじめ対策週間というのがもうけられていて年に一回その週だけ、全校であいさつをこころがける、いじめ、だめ絶対と書かれたポスターを廊下に張るなど無意味としか思えない運動がされていました。
体育館に全員を集めて、校長が人の命の大切さと、いじめのむごさを説く集会が開かれたりもしましたが、その会の間中ずっとポケットからものを抜かれる、体育館履きに落書きをされるなどまさにいじめられていたけれど、誰も見ていませんでした。
不登校になると、週に一回か二回決められた時間にスクールカウンセラーと話をすることが
決められていて、それだけが唯一の不登校生徒への対策?のようなものでした。
ただ、そのカウンセラーはまともに人の話を聞くような人ではなく、私が自分の状況を話すと、運が悪かったんだねなどと言うだけでした。
また、信じられないことですが、私が心を開かないようにしてなるべく自分の話をしないようにしていたところ、頼んでもいないのに他のカウンセリングを受けに来た人のことをベラベラ話し出すようになったのです。
カウンセラーには守秘義務があるからなんでも話せと最初に自分で言っておきながら、きのうは別の学校の自傷行為をしている女の子と面談したけど、全然喋らないで絵だけかいて帰っていったからあれじゃあ友達できないだろうなあと思った、とか、そういうことを面白おかしく話されて唖然としました。また、私が指定された時間にカウンセリング室に
行くと、数人の生徒がただ単に暇だからと雑談しに来ていたりして、こいつらいいやつだから、話す間一緒にいてもいいでしょう、と言われたりもしました。
たかが中学生相手の仕事だからなめてかかっても大丈夫だろうという態度に傷ついたけれど、文句を言える場所がないし、カウンセリング室をさぼると担任に連絡が行くので、嫌々通いながらも、そこのいるあいだはヘラヘラして世間話をするなどして誤魔化していました。
また、教室に行っていない期間も部活に顔を出していたところ、学年主任と担任に呼び出しをくらい、元気なら学校に来い、学校に来ない奴は部活に行くのもダメだ、と説教されました。
クラスは問題があるから行かないけれど、部活まで出てはいけない理由は何か、と尋ねたら、もしクラスの人が見たらまたお前が目立つような変な行動をとったということが原因でいじめられると脅されました。反論すると、そんな性格だからいじめられたのだと言われました。
教師二人と向い合わせになって暴言を吐かれたことで怯んでしまい、結局部活に行くのは断念して、親の目を気にしながらずっと家で本を読んだり
勉強したりして過ごしました。
5、 その後
中学三年生に上がり不登校から復帰したあと、いじめの標的ではなくなったものの、また似たような荒んだ雰囲気のクラスで、やはり授業はほとんど機能しておらず、担任は良い先生で、それだけが救いだったけれども学校に通うのは辛かったです。
担任は異動になってその年に新しく入ってきた人で、ふつうの感覚の持ち主でした。
殴らないし怒鳴らないし、生徒が間違った行動をとるときちんと叱るという普通の教員があまりいない場所だったので、ようやくまともな人にあたってよかったと思っていたのですが、学年の途中で体調を崩し休職してしまいました。まともな感覚でまともでないところにいたら、そうなるのも不思議ではありません。その後何があったかはわからないけれど、ストレスが爆発したのか、学校内で盗撮を繰り返したことがばれて捕まり懲戒免職になってしまいました。
荒れた学校にはこりごりだったので、高校は中学からの知り合いがあまりいない、
少し遠いところにある進学校に入り、中学を出てからはとくにいじめられることもなくおだやかなところで過ごしました。
ただ、激しくいじめられているときは無感情にどんどん近づいて行ったのですが、そういう打撃から少し時間が経つと、しんどい気持ちが湧き上がってきて、しつこいフラッシュバックに悩まされるようになりました。
情緒不安定のまま、だましだまし人と関わっていくという状態がずっと続いています。
おわりに
自分の身の回りの環境が閉鎖的、かつ暴力に満ちていて、そこから逃げる手段も無く、他人とのまともな人間関係やあたたかな交流がほとんど絶たれてしまっている、そういう状況下で少しでも自分の中にまっとうさを保っておくは当然ながらとても難しいのです。
「現在の自分のいる場所はたまたま酷いけど、別に全世界がそうではないのだ。外の世界はあるのだから、今をしのげば別の場所に移動できる。」という当たり前のことがだんだんわからなくなって、心がどうしようもなく疲れて今にもぽきりと折れそうになっているのが中学生のころの私の常でした。保身のために誰かのことをいじめる輪に加わった方がいっそ楽なんじゃないのか、ということもやけくそになって考えたりもしたし、
虐げられる原因はすべて自分にあって、何かが欠落しているせいでそれに気づいていないだけなのではないか、と絶望的な思い込みにはしることもありました。
ただ、一番身近にいる親も保健室も学校の先生もカウンセラーもみんな頼りにならない、しかもいじめられているという最悪の状況でも自死を考えたり絶望し切ったりしなかったのは、私が現実から少し離れて本やインターネット上の文章などを読んでいる時間が長い子供だったことが大きいです。生身の人が目の前にいて手を差し伸べてくれることが見込めなくても、文章を介しての外の世界との繋がりがあったことは幸運でした。
一人だけで自分の状況について思い悩むばかりだとどうしても閉じていって暗くなるし、他の人が書いた多くの文章の助けを借りて、拙くはあっても自分の言葉や考えを得ていくことが自分の身を守ったのではないかと思います。
情念をとおしてしかいじめについて考えることがないというのは危険で、いじめのおこるプロセスや、いじめが起こる場所にいる人の心の動きはどうなるかなど、客観的な立場に立って自分の経験を眺めていくということでも、また、どこにでもおこりうる社会的な問題としていじめを考える上でも、大学に入ってから読んだ、中井久夫「いじめの政治学」、内藤朝雄「いじめの社会理論」等のテキストは役立ちました。中井久夫の「いじめの政治学」の内容は子供が読めるように翻案されて「いじめがある世界に生きる君たちへ」という子供や本を読むのに困難さがある人にも読みやすい書体、文体になった書籍にまとまっているので、現在進行形でいじめやいじめの後遺症について考えたい人にはおすすめです。
本から知識を得るということだけでなく、私はそれらの書籍を手に取り、まじめにいじめについて考え続けている大人がいるということにも勇気をもらえました。あまり教師や親や周りの大人がまともだったことはなかったし、私と共通項のある体験をした、している人々で周囲の人間に助けを求められない人には、書籍や書籍を著した遠くの著者から心を守ってもらうことも必要ではないかと感じます。
自分もいじめ被害者ということでいじめ被害者の話題を見聞きすることは半乾きの傷をほじくりかえされるようなことでもあったけれど、どうしても自分と重ね合わせて事件を見てしまい、報道される事件のことについてかなり関心をもっていました。
通っていた高校の友達ともいじめ自殺事件の話題になったことがあります。
「被害者にも原因がなかったらそこまで酷いいじめにならない」だとか「私も他人をいじめていたことがあるしどこにでもあるもので、必要悪」
という言葉を仲良くしていた友達の口から聞き、とても辛くなったことを覚えています。日常でポロッと露呈される親しい人の本音がそういうものだったので、せっかく中学を脱出して高校に入っても周りの人の意識はあまり変わんないのか・・・と酷いショックを受けました。
中学を出てからずっと対人恐怖症気味で、人と話せず極端に無口になったり人間関係に支障をきたすような後遺症もありました。
気の合う友達と大学では出会えたし、アルバイトや部活動、サークルでも浅く広く人間関係を持つことができたものの、いじめ、という、人から受けた打撃なので、人との関係で癒えることもあれば、対人ストレスに異様に打たれ弱くもあり、未だ対人関係にかなり困難を抱えていると言っていいと感じます。
精神科通院もカウンセリングも14歳から29際の現在まで終わることがなく、それはとても理不尽だし、いじめのサバイバーとして生きることは基本的に苦痛に満ちています。
私は社会のどんな場所でも私のような目に遭う人が減ることを願っているし、人を壊して殺す社会ではなく人を生きさせる社会が訪れることを願っています。