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あちらを立てれば、こちらが立たず

捨てる神あれば拾う神あり。

そうも言えなくもないというか。

環境問題って、ぶっちゃけそういう物では?、と。

人間優先の環境を維持するか。

過去に立ち戻るかのように自然と共存するか。

うん。

便利になれすぎたから人間優先の視点しか持てないというか、便利慣れ=欲深いに対して自己弁護するかのよう、というか。

二兎追う者は一兎も得ず。

以前に、都合のいい話だけを持ち上げて、環境問題って何がどうあって、どんな問題があるのか?を考えないまま。

上辺や目先の情報にほだされ過ぎたからこその失敗した未来というのが、過去から見た今であって、その失敗した過去にならうかのようにあるのは、同じ失敗を繰り返す、事になるのでは?


ほんとこう、いい加減にしません?

カーボンニュートラルだなんて、もう20年近く前には言ってたけど、結果はどうだっつーの。

という。

でも、よくよく考えると、硫黄酸化物の問題による、硫黄分低減によるサルファーフリーの方を持ち出してたっけ。

でも、同時にカーボンニュートラルも言われてて、バイオ燃料という存在に触れられる時には言及されてたのが20年近く前というね。

とはいえ、燃料としたからには。

燃焼で発生する、新たに燃焼することで反応して違うものになる。

こういう要素が邪魔をしたからか、バイオ燃料も余り持ち上げられなくなり、カーボンニュートラルも聞かれなくなった。

それが、20年近く後に、SDGsだ、新たな目標が出来たからと持ち出すのは流石に愚策というか。

20年近く前でも、少なからずそういうのに関わる業界に居たら、

カーボンニュートラルっていうけど。

CO2を吸収する植物だって、日光がなければ光合成が出来ず、呼吸に変わり酸素を消費するわけなんだけど、そこはどうするの?

植物由来とはいえ、何らかの方法で別の物を製造して利用する=その製造の為の装置でエネルギーの消費があり、そこでもCO2排出があるのだけど、この時点で植物と精製されたものが対等にならないよね?

CO2の排出って言っても、大気に出てしまえば拡散してしまうわけで、工場のそばに専用農場作って吸収させなきゃ意味がないのでは?

他色々。

絵に描いた餅、机上の空論といわんばかり。

大気に拡散されて層を成すが故の温室効果ガス。それなのに、大気に拡散したのを植物が吸収するからというのも、相当にこじつけてると言う、ね。

植物がダイソンもびっくり!って程に、CO2をギュンギュン吸い込むわけでもない。

そこに気づいてた人も多く。でも、それは言うな、言ってはいけない、と言わんばかりというか。

結局下火になっただけでなく、京都議定書の目標期限以前にもあった話を、ズルズル引きずるハメになってるのに持ち出すというのは。

人間とは、かくも無力なものなのだろうか。

まぁ、無力というより。反省しないし、都合の悪い部分は見ない、底を見ないからこそ、根底にある原因要因には迫れない。

そもそも、です。

人間の利益のために、自然や環境の破壊は無視され、公害というものが散見されてたという、前段階もあるのに、そこの話がでないのも。

本気で改善する気あるの?

改善の部分で発生するビジネス、利益を裏に隠して、綺麗事でごまかしてるだけじゃない?っていう、ね。

ほんとこう、カーボンニュートラルを正に救いの一手みたいに謳うCMをYoutubeで見聞きするようになって、「笑いが止まらなさすぎて頭いてぇ」が止まらず、やれやれしてしまってますのよ。


大凡、個人が思いつくレベルなら

既に手を打ってる。

当たり前というか、そもそもそういう産業での技術やプラントの構造すら、様々な学術的な知見から、反応だ吸収だという構造を込みで造ってます。

うん。

CO2だって、少なからず回収して活用してなくもないんですよ。

ただ、そこには出来なくはないけど、完璧にやろうとしても、回収した気体を個体にするので、売る、消費する、処分するという、手段がなければ、回収した所で、常温で気体の物を個体、液体で維持しようものなら、

そこで別途エネルギーが必要=CO2の発生を誘発する。

あちらを立てれば、こちらが立たず。

そこのさじ加減をどうするか?という問題と、解決の為の難しさがあるんです。

個人の疑問程度で済むなら、今頃CO2ガー、温室効果ガスガー、環境問題ガーなんて言ってないんですよ。

科学者や研究者だけでなく、経営者や国家の運営のTOPですら、流石に知ってる気づいてるしてるわけで。

また、だからこその難しさを痛感してる人もいると思います。

そして、地球規模の問題となると、一国家では同しようもないほどに巨大な権力、パワーバランスに押しつぶされもする。

だからこそ、地球の環境という、全人類が住んでる惑星規模の問題をうまく片付けられない。

上っ面を装うだけでなく、本気で解決しようと一意専心できてるなら、利益よりも環境維持とそのための協力を最優先してるのが、寧ろ当たり前といえなくもない。

なんというか、無知は罪とまでは言わなくとも。

疑問や違和感を感じたら、発言する前に調べる、考える、想像するって、相当に大事なんですよ、と。

自分が由(よし)とするからこその自由とも言えて。

なので、元々明治維新後の改革期に外国から入ってきた自由という言葉も。

意味を知るだけでなく、自由とはどういうことか?

元々外来なわけだけど、元の国での自由とは何か?

そこを追求していくと、諸外国、特に欧米となると、自分自身で能力を把握して、それをもって自分の進路を切り開こうという行為への自由さ。

それがあるのでは?と気付ける程です。

なのでね。自由とは言え、個人が簡単に到れるような事は、既に手段どころではない程に、一般的に活用されてるもので、それでは対処しきれないからこその、環境問題だ、と。

至れないようなら、口にしても、ネガティブさを自身が発信するだけになるのですよ?

なんかこう、痛い所を付きすぎてるかも知れませんが。

自分だけしか見ないという、主観からしかない自由って、対して効果を発揮しないという自覚も大切だと思います。

そうあらないから、情報に踊らされてしまうんですよ。


その他の問題として

公害としての酸性雨だったとしても、森林破壊にすらなり得る。

ディーゼル車が主流とも言える欧州では、酸性雨による森林破壊が問題で、そこには石油という化石燃料からは、

窒素、硫黄と言う成分と、それによる窒素酸化物、硫黄酸化物

という燃焼による精製する成分の問題があったから。

それ故に20年近く前は、カーボンニュートラルよりも、硫黄分を低減するというサルファーフリーの方を持ち上げてたと言うか。

そして、窒素なんかは問題で、この窒素酸化物なんてのも、

温室効果ガスになりますよ、っと。

で、バイオ燃料は化石燃料と違って確かにCO2は出ないでしょう。というか、化石燃料とか石油とはいえ、炭化水素。

CとHが結びついた物が主流の存在ですから、燃焼するとCとO2の反応でCO、CO2が生成されるというのは、化学を専攻して学ぶ人なら当たり前の事だとは思います。

メタンならCH4、エタンならC2H4、プロパンならC3H8と。Cの数+(Cの数*2倍のH)というね。そういうものなんです。

だから化石燃料が主流の今は、CO2が問題になる、と。

でも、それをバイオ燃料にしようにも、エンジンという燃焼と爆発でエネルギーを得る原動機だと、バイオ燃料では想定してないがために、思いがけない事が起こるので、主流になれなかったのが今まで。

今では技術革新も進んで、すくなからず、それを使用するための物があるかもしれません。

でも、燃焼されるからには、今度はバイオ燃料に窒素という問題が付いてくる。そして、置き換えてもNOという窒素酸化物が問題になりうるという指摘すらある。

また、エンジンができても、ガソリン車、ディーゼル車だけでなく、農業で使う様な暖房だと、これまた重油と言う燃料が使われてるという、普及の問題もあり、そこには予算が絡みますし、強引に推し進めれば国民の生活を更に圧迫するという、ね。

様々な問題があり、CO2だけとか、NOだけで済まないんですよ。環境問題って。

また、ガソリン車、ディーゼル車は排気ガスに関する触媒の改善という部分もあり。

そこが改善されたから、バスや大型のトラック、ダンプと言う車両が黒いガスをはかなくなったし、関東ではその触媒を導入しなきゃ乗り入れ禁止!なんて時代もあったんです。

燃焼と爆発でエネルギーを得るエンジンが出来たとしても、そういう部分での燃焼生成という話や、触媒での吸着云々の話はあまり表にはない=まだまだ研究、開発だんかい?というね。

知ってれば、可能性として考え至れなくもない、見えない部分にも難しさがあるというのが、さも当然というか。

環境問題って、結構複雑で、あれに対処すればいいで終われない。

それを目標があるからとはいえ、綺麗事で押し流そうとするから、いつまでもズルズル引きずると言うか。

正直、知らなくても構造に組み込んで対処してます、でも良いと思うんです。

でも、そうあらないどころか、寧ろ表に押し出して問題化するというのは、はたして別の意図があるのではなかろうか?と。

仕事として、少なからず関わるだけでなく、感受性からの違和感の検知、そこからの追求、それは何故と更に追いかける姿勢があった身としては。

最悪の可能性、逆転の可能性として、問題にしてるのは、利益やビジネスの為なのかもしれない?ってね。

本気で考えてれば、そもそも産業革命以降が急速過ぎて、悪い部分は臭いものにフタをしてたからと言う部分も見えるんです。

そこを改善するなら、時代そのもののあり方にメスを入れる必要すら無くもない。

でも、そこに至らないのは?

何故なのでしょうか?

というね。

正しい間違い、良い悪い、ビジネスか問題か。

どちらかを取れば解決するという、簡単な問題ではない。

環境問題ってそういう要素もあると思います。

一点から見た一点の良さ、正しさだけでは通用しない。それ程に大きくて強固なものだと思うんですよ。

そして、そこで余談を挟むなら。

獣害なんてのも、人間様の勝手な都合であって、そういう事が発生するようになってるのは産業革命だ、経済成長だを優先して、自分たちだけでなく他の様々な生き物がすんでる地球に対しての目線が問題の根底にある。

そういう獣害なんてのも、環境問題としてあげるなら、宅地開発だなんだと、野山どころか雑木林すら削って自分たちのものと言わんばかりの人間の行動が問題なんですよ、っていうね。

正しい、間違いを口にする割に。

都合の悪い部分が見ない。

そういう、無駄に脳が発達したが故の弊害を人間様が向き合ってないからこその問題だ、と。

ほんとこう、ズルズルやってる内に、自分たちが絶滅危惧種なったりしてね。

という笑えない、最悪の将来なんてのも。

極めて少ないとは言え、そういう可能性もある、と思います。

そして、そうあるが故に。

個人の理想なんて、上辺を打ち出した所で。

暖簾に腕押し、焼け石に水。

それを知った程度の言葉でいけしゃあしゃあと、理想を語るだけで終わらせるなんてのは、過去の過ちと同じことやってるだけですよ?と。

少なからず、年齢的にはまだまだとはいえ、近い立場にいるので、老害がwと言われるのも止むなしと言う気持ちで。

口を酸っぱくしなきゃいけないかねぇ、と。

本頭に問題だとするのなら、自らが肉斬骨断して。

異論反論ばっちこい!好きに罵ってくれ。

でも、少なからず生きてきたからこそ、見てきたものをもって、どんな問題かを語る必要はあるものだ、と。

自分が傷つかない位置にいて、石を投げるのではなく。

前に歩みだして、石を投げつけられる事は承知なのでいくらでも好きにするが良い、と。

それでも、言う事を言う。傷つくことは恐れずに。

自由という事は、覚悟や責任も含んで扱わなきゃいけないものなのかも知れない。

自らがそうあるからこそ伝わるという、言葉では伝えきれないものを伝えないことには。

環境問題なんざ、片付きもしない。それどころか。

本当に、考えて対処すべき問題なのか?

そうあるなら、何故こんなにもズルズルと引きずってるのか?

知る、学ぶ、考える、想像するからこそ至れる、疑問や違和感という物への着目を誘発させないといけないのかもねぇ。

って、綺麗事言ってしまいましたわ。

うええええええ!


あとがき

良くも悪くも、正しいどころか、下手すると正論が過ぎてて気持ち悪いなんてことも言われてた、という経験もあり。

個人として当たり前のように見えてしまう現実。

深い所を見つめすぎですという指摘。

そういう部分をどうしても隠そうとするように生きてきたからこその苦手意識があるのに、綺麗事を語ってしまったぞ。

自分で自分が気持ち悪ぅ…。

まぁ、環境問題って、本気で片をつけようっていうなら、今までというんでしょうかね。

近代化から現在までの時代の総決算をしないといけない。

そういう難しさがあると思います。でも、そこには踏み込まないまま、ある程度掘り下げてても、まだまだそれは上辺と言わんばかりのところしか持ち上がらない。

まぁ、窒素なんて、温室効果以前に硫黄とともに酸化物が、その成分が大気に拡散されたことでの酸性雨というね。

先に訪れる問題として持ち上がると思います。

実際に地球規模としての大気以前に、酸性雨が問題視され、そこに窒素酸化物と硫黄酸化物が絡んでたというのは、既に確立されてるような話でもあり。

そうあるなら、窒素の含有量が多いものを燃料としてエネルギー源にするという時点で対処するでしょう、という話でもあります。

だからこそ、酸性雨にすら関わりもしてないCO2が問題視される、とも言えてしまうというか。

公害とは言え、少なからず自然やその環境に排出するからこそ起こり得た問題なので、そういうのも環境問題の一部とも言えるわけで。

なのでまぁ、何が問題だ、何が正しいだ、何が解決策だ、という話ではなく。

外来生物を持ち込むことでの生態系の破壊。

そういう物と同じように見ながら、そして考えながらしないといけないのでは?と思います。

人間の生活様式による影響も、人間という生き物の生態系と言う話ですし、そもそも人間が生態系の破壊をしてる生物というのは、無視しちゃいけないでしょ。

というような、ね。

そういう見方をしないことには、どうしようもないというか。

人間だけは特別というのは、選民思想につながるようなもので、他の生物からしたら、人間さえ居なければになるような部分もあると思います。

でも、そこに。

自分たちは対処ができるからと言いつつ、対処をするために破壊していくのはどうなの?という。

そもそも、それが人間だけの都合、人間の傲りだと、学生時代に口にしたことで、そういう部分からも、

お前は真面目すぎ。

そう言って相手にされなかったものの、後々なって、相手にしない、馬鹿にする、下手すると視線が蔑んでるだった人たちは。

どう弁解しますか?今は。

そんな話をすると、足元すくわれて、感情的になるという、ね。

そしてそこには、個人の主観、感情論というものを優先しがちな、理性やそれによる自制が出来てないじゃん?という、人間と言う生き物の有り様すら絡んでくる。

日本人は真面目。

ではなく、日本人は小さい所、細かい所に目が行くし気づく。

だからこそ、キリスト教伝来とそれによる植民がうまくいかなかった。それだけでなく、教えてしまうと、神がいたとして何故悪の存在を許してるのか?という、哲学的な問題をその辺の農家のおっちゃんおばちゃんですらやってくるから、宣教師は困っていたと言う話が、ね。

最近では表に出てて、言及されて無くもない。

自然だけでなく、物や言葉にすら、神という存在を置いた。

付喪神に、一言主大神。

細かい所に目が行く=それ程に柔軟性も併せ持つというのが、日本人というか。

そして、正しい間違い以上に、自分たちが活用しやすいようにするには?を島国だからこそアレコレ考えるので、魔改造するに至る。

新幹線なんて、鉄道はもともと英国から学んだものなのに、アイツら魔改造してるどころか、時間に結構キッチリですごいんだぜ?

どうなってるの、日本人という、ね。

って、語りだすと止まらないほどに、あれこれ繋がって現実が見えてしまうというか。

環境問題と言うより、環境との共存という話ではなかろうかね?と。

如何せん、今までは様々な事があったとは言え、自国や自分たちの利益というものを優先しすぎたがゆえに、破壊も止むなしとしてた部分に対処するような話ですから。

問題として解決するだけでなく。

改善を意識しつつ、共存して、お互いに住みやすい地球という、目線も必要なんじゃないでしょうかね。

だってもう、権力とかパワーバランスという、人間社会の中すら複雑すぎて、一枚岩にならないわけですから。

相当に難しい話でもあるんです、よ。

それでは。

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