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掘り下げるということ

個人としても、よく言う「掘り下げる」と言うこと。

自分にしろ、他人にしろ、現実にしろ。

深さというものがあるので、上辺だけでは失敗すらしてしまうもの。

自分にとっての普通に見る=意識せずに目を開いてる状態で、見えてしまってるライン。そこが、カウンセリングでは「深い所を見つめすぎ」という指摘になったものの。

「いやー、そこがその、普通の見えるとか聞こえるのラインで」

そうあるせいか、見えてる範囲、聞こえてる範囲すら違ってしまってる。

それでも。

見えたものだけ、聞こえたものだけでは、拭えない違和感がある事が多いので、その奥には、その先には何があるのか?

鉱山で鉱石を掘るかの様に、先に進み、場合によっては下がる様に進んでいく。

そういうのを、掘り下げる、と。

個人としては言ってたりします。


本音と建前がしめすもの

これはもう、割とよく使われるようなものなので、

建前でやりとりして、本音はそれで隠してる。

そういう物でもあるので、実際に言ってる事が正しいなんて事にはならない。まだ先に何かがある。

そういう事でもあると思います。

この辺ね。

色々経験する中で、実際に何度も見聞きしただけでなく。

嫌味か?と言わんばかりに相手を突いて、裏側の本音を暴露させる。そんな事を実際にやったりもしてます。

下手すると、縁を切るなんてことにもなりもするので、それでも良いと覚悟出来た場合しかできないですけどね。

うん。

なのでね。

先日も言いましたが、嫌なこと言われて傷ついたなんてのは、本音と建前の建前しかみれてないのに、それで傷ついたという。

言ってきた言葉に対し、何故そう言って来たのか?という、言うに当たる根拠。本音と建前でいうなら、建前の裏の本音に当たるような根拠に気づこうとしてない時点で、

なんも、感じ取れとらんよ。

そういう話になるわけですよ。


先に進む、深める

掘り下げるというのは、ある意味、理解に対する姿勢だったりします。

理解を深める、という感じで。

他者どころか、自分すらも無意識という部分があるので、気づけないほどにやってしまうこともあるんですよね。

自分のことなので、まず、自分が気づくものです。

他者が気づいても、「あー、それね」と行動原理や自身の心理、根拠をあっさり説明してしまうので、結構嫌がられます。

気づいたことで揚げ足とろうにも、気づいた相手は把握してるから取れなくもなるんですよね。たまに、ですけど。

ホントこう、

彼を知り己を知れば百戦して殆うからず

です。

人によっては、彼=敵で覚えてるかも知れませんが。

まぁ、敵を知り己を知れば百戦殆うからず、という言い方もあります。

うん。

日常的な対人関係すらも。

相手だけでなく、自分自身も知らないことには。

たかだか会話であっても、他者とのやり取りの中には攻防という部分が発生しもするので、危うくなるんですよね。

そのためには何が必要か?

自分に対しても、相手に対しても、一歩踏み込む形で把握するだけでなく、様々な手法、技法をもって、研究するかのように、良い悪いではなく客観的な事実として、深めていく必要があります。

それを、掘り下げる、と。

掘り下げると、可能性程度、恐らくとか、多分であっても、表面上では見えない部分を知れるんです。

それを少しずつ積み重ねていくことで、少なからず、相手を知れる。

それでも、理解なんて程遠い。

とは言え、深めて知れた部分については、相手にとっては自分を理解してくれてるのかもしれない?という受け取りが発生することで、それが更に、信頼関係の構築になり、それも対人関係に反映される。

理解は相互関係と言ったりするのも、そういう人とのやり取りの中で、実感したことが起因してたりします。

そして、対人関係ってそういうものの積み重ねだと思いますよ。

うん。


一方的では、ダメ

どんなに経験を積み重ねても、恐らくとか、可能性としてでしかないです。

ただ、相応に人を見てきてるなら、積み重ねた人数からの類似点という部分から、そことなく当ててしまうことも出来る。

相談上手という話で、何でそんなに気付けるのか?わかるのか?と驚かれるしくみってそういう部分だったりします。

そして、大事なのは。

可能性とか、恐らく、突き詰めても類似という程度なので。

掘り下げてるレベルが浅いまま、一方的に決めつける、ハメ込むようだとアウトです。

その時、その場、で少なからず相手と対面する。そういう場で発生する状況の変化、それに伴う相手、だけでなく自分自身の変動もあるので、ね。

個人として、こういう相談を受けたケースで・・・と、相談内容からこういう人はこうという話をしないのも、そういう理由があったりします。

なのでね。

心理関係の動画とか、たまに、え?します、よ。

カウンセラーとか、やってる人がそういう事言うなら尚更。

あくまで、自分の経験ではこうあった、だからといって、それが当てはまると言うことはないので、注意してください。

というような、注意を持って、あくまで参考です、になってる内容すくないんですよね。

心理学ってコワイ部分もあるんですよ。

共感というものでも、相手の頭の中、思考としての感情部分は見えないのに、何故共感してるなんて言えるのか?

そういう部分から、共感の闇とか、落とし穴とかに言及されてる内容もあったりします。

感情が伝わってくるように思うのは、涙を流す、嗚咽を漏らす、悲しい顔をする、楽しそうにしてる、嬉しそうにしてるという、感情の表れと言われる動きや言葉を見聞きするから、伝わってると判断できるだけであって。

何がどうあって、どの程度悲しいのか?

どこをどの様に楽しんでるのか?

そういう部分ってわからなかったりしますし、それなのに、分かったつもりで声をかけて、失敗する、と。

でも、相手を見てない自分自身より、否定してきた相手に問題意識を持ちやすいのも人なので、対人関係は面倒くさいもんです。

うん。

AD/HDでコミュニケーションが苦手とされる事があるのは、こういうわかったつもりすらなく、見聞きしたものからの衝動性による影響があると思います。

あくまで、個人が思う程度ですが。

なのでこう、衝動の制御って、脳の信号によって咄嗟という形にもなるようなものなので、失敗しても止むなしの部分があるし、AD/HDってどんな症状で、この人はどういう特徴をもっているのか?という、ね。

そういう事が普通にできる側が、相手を知ろうとしないから、お互いがお互い失敗するだけでなく、発達障害という、如何にも発達が遅れてるという固定観念の作用から、見下しすら発生してしまう。

全部が全部ではないですが、恐らく可能性としては、こういうケースが多いのでは?と思います。

なんで、こういうのか?というと。

真面目だ、気遣いだという他者の指摘。

これが、何の脈絡もなく突然に飛んでくるってのを何度と無く経験してるわけですが、その時その時で、相手に事情や理由を聞いたりしてるんですよね。

相手には理由があったとしても、何の前触れもなく、突然声をかけられて、意識してないことを言われるようだと、相手が衝動性が過ぎてないか?と疑うこともあるんですよ。

そういうのを、嫌というほど経験してるので、なんとなく、可能性だけど想像ができる。

そういう仕組だったりします。

また、AD/HDの場合、注意欠陥という部分を持ってるケースもあるので、衝動性という部分に限らないこともあるんですよ。

注意欠陥という部分から、どうしても注意が払えない、だからこそ困る、悩むという物を持ってる人も居ます。

なので、難しい。名前だけ知られて、上辺ばかりが広まって。

何がどうあって、その症状を持つ人はこういう行動を起こすのか?という一般的、体系化された部分から、更に実際に個人と向き合った場合は、その人の表面ではなく、奥に何があるのか?という見極めが出来ないことには、

対人関係悪化して間違いなし、です。うん。

ほんとこう、今となっては当事者の人でも様々な人が居て、様々な情報が出たりしてますけど、正直、目の前にいる人にそれが当てはまるなんてのは、

そういう障害関係なく、ほぼほぼありません。

これは言える。

個人としてそういう症状は持ってなくとも。

周囲が何度と無く、情報の鵜呑みから、一方的に決めつけようとしてきて散々な目に合いましたし。

そもそも、感受性が絡んでくる、気付き、察し、という部分すらも。

自分たちと違うからと、話聞かないまま、他者基準で一方的にごちゃごちゃ言われてきてますからね。

流石に、想像するに容易い。

とはいえ、あくまで全部ではないです。

何度と無く行ってますが、目の前にいるその人と向き合わなきゃいけない。

そこには難しさが有り、難しさがあるが故の面倒臭さもあり、更に相手も人なので言葉を発するものです。

とはいえ、ちょっと難しさがあるだけ。

普通の人であっても、相手を知れてないうちは、対人関係なんて難しいものになるし、だから、症状どうこう関係なく、誰しもが悩むことになる。

それを、ね。

お互いがお互い一方的にやってては、ダメなんですよ。

違う言い分のぶつかり合い。

これって、超小規模な戦争ともいえ無くないですから。


あとがき

ちょっとこう、余計な真似をしたかもしれない、と思いつつ。

なにはともあれ、個人としては幼い頃から言語化という部分が他の子より若干マシだったので。

先生の手間をちょっと省く程度の対応が出来てたりしました。

とはいえ。

そういう部分については、どうしても、そうあられることが疎ましくなってしまいもする。結果、怒られることになったりもしてたわけです。

まぁ、でも、ねぇ?

人に限らず、もう言葉すらも、その言葉はどういうものなのか?という踏み込みがないまま、好き勝手にホイホイ使うわ、生み出すわ、と。

正直、造語の類なんて、ネットスラング=蔑みを含むようなものもある、というのと変わらないと思います。

個人としては、ですね。

何がともあれ、人としての在り方に感銘を受ける方も多いので。

サムライジャパンとか、申し訳なさすぎて、腹立ててたりします。

責任とって切腹するかね?ん?

そういう時代じゃない、ではなく、時代じゃないから侍なんて存在しないんですよ。

そういう本質を無視して、それが(都合が)良い言葉だから、と。

振り回してますよねぇ?

ホントこう、都合の良い部分は見て、都合の悪い部分は見ない。

紀元前から変わらない。ユリウス・カエサルがそういう言葉を残したりしてるわけなんですよね。

それでいて今や、時代は変わったから。

どこが変わったんですか?と。

ちょっとこう、進むだけでなく頭冷やさないと、崖の先に向かって進んでると感じてしまうことも・・・。

増えてきてるんですよ、ね。

まぁ、個人的にそうあるだけですが。

それでは。




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