見出し画像

影響というお話 2

時間があった時に、何がどう、何が正しい以上に、そういう事もあったなぁと過去を振り返るのも良い。

そこから学べる物があるから。

と、そういう臭い話にもなりそうですが、そういう物ではなく。

思い出せなくても、子供がいれば子供の様、有り様からも見え隠れする部分だと思います。

きちっとした人格形成がなされる前に、保育園、幼稚園、小学校(低学年程度まで)と。

集団生活の場があるからこその、受ける影響というのもある。

そういうお話ですよぅ。


割とある、かも知れない話として

幼い頃の言動として、集団生活の場で見た他者。

教師や先生だけでなく、たまたま通りがかった大人、自分と違う環境で育った同級生。

「そういう人たちがこうあったから」

集団生活の場だからこそ、見聞きしてしまうだけでなく、場合によっては口にした当人がそれを受けたから、と。

いわゆる、真似。言い換えるなら模倣。

そう言わんばかりに、影響を受けて帰ってくるのも、普段見ないからこその違いを見聞きした影響とも言えると思います。

こういう部分からも、ね。

感受性って誰でも持ってるものなので、という話になる。

それが良いか悪いかは難しい部分があるので、真似をしたものが都合が悪かったからと。感情をぶつけるかのように怒ろうものなら。

それを今度は集団生活の場に持ち込むかのように、家庭で受けた影響として披露することにすらなる。

正直こう、ね。

自分の意思でやってるようで、意外と無自覚のうちに影響を受けてるという事もありますし、そうあるからこそ違いを持つ他人と触れ合うようなら、善悪や正誤と言う部分から、衝突すら起こりうる。

それが人間だし、人間社会という感じで。

環境感受性という心理学の概念。正に、心理ではないですか!

そう言わんばかりというのは、学が無くとも、経験から探れるものもあると、個人的には思います。


多数派と少数派

そういう集団生活の場に早いうちから出るからこそ、学べるものも多いです。

ですが、逆に悪影響になりうる部分も多い。

その一つが、多数派、少数派という、ね。

その違いについて、何がどうあって、どうしてそうなるのか?というより。戦争をしてるわけでもないのに、頭数を揃えて少数だからと言う理由だけで排他的になる。

多数派、少数派というのは、状況次第では善悪の基準を歪ませる要素にすらなりえる。

この辺は兎に角、話を聞かずに、一方的に、自分たちが多数派だから一般的=一般常識側のいわんばかり。

その、一般的すら、様々な価値観を持つ人から様々な意見を取って統計をとったわけではなく。

自分が見たい側=自分にとって都合のいい側だけをみるというか、そこしか見えないというか。

そう言わんばかりに、根拠のない自信から、多数派が正しいのだ、と。

こういうのって、

「おっけー。そちらの言い分は分かったよ。でも、自分が一般的という根拠は?多数派が正しいという根拠は?」

そうやって根拠を問うと、上辺しか見てませんと言わんばかりに、自分が言ったからこその説明をしてくれないか?という事に対し、説明ができないだけでなく、自業自得なのに、

「自分の話を聞かない側が悪い!」

自分の至らなさを隠すために、相手を悪として断罪する。

今の世の中に溢れてる、正しい間違いの応酬って正にコレなんですよね。

そして、世に溢れてるからこそ、人間社会という環境からの影響だ、と。

そういう話にすらなるので、

主観による正しさなんて、過信や拘り、安心の拠り所にすべきではない、と。

個人的には、無駄にぶつけられて傷ついたからこそ、悪と断じるのではなくそうあっては、自分以外の誰かを傷つけてしまう。

だから、気をつけたほうが良いと思いますよ?ってね。

どうしても、そう言ってしまうんです。

そして、そう言ってしまう私も、そういう部分からの影響をうけてしまってるからこそ、言ってしまうのだ、と。

自分に厳しいんじゃないんですよ。人の振り見て我が振り直せ、なんて日頃から口にするから、自分がそれを示さないことには説得力という物が欠けてしまう。

そういう個人だからこそ、自分自身だからこそ、自分に対しても反省を促すと言わんばかりの言動や思考すらもするだけで。

こういう部分も、ね?

それは真面目すぎだ、自分に厳しすぎだというのが多数はだから、と。

そうある当人の主張、告白以上に、自分が見てる正しさ=多数派をもって否定するっていう。

ほんとこう、何でそんなに目をそむけると言わんばかりに、現実をみないのか?

どうにもこうにも、人間って不思議。


結果生まれた最悪のものとして

世界史の中に出てくる、魔女裁判、異端審問。

裁判の結果が、名のある人がそう言ってるから、と。

多数が流され先導され、無駄に生命を奪ったというのも、人の歴史の中には存在します。

その中には自分が村八分をくらうかも?というような。欧米での出来事なのに、日本の村八分にも相通じる部分があるからこその、多数派への迎合ってやっぱりあるんですよ。

村八分も、その土地の権力者の影響や、それによる多数派の形成からの、冤罪というケースもあるわけで。

そして、こういう話も正しい、間違いではなく、歴史的観点とか、現実的な話とか、仮定、可能性、推測とはいえ、少なからずそういう部分が今になっても伝わってるからこそ、現実との照らし合わせであぶり出される部分ですよ?という。

現実論というか、そういう話なんです。

また、こういう部分を反省したからこそ、差別やイジメというような。

自己都合での勝手な振る舞い、一方的な弱い者いじめはよくないものだ、と。

そういう話にもなり得る根底の部分という、ね。

とはいえ、そういう事を学んでも、人間誰しも自分が大事。

自分が大事だからこそ、自分で守らなきゃいけない。

その為には口を動かすだけでは、言うは易く行うは難し

こういう風に、違うと区別されそうにあっても、相通じるという表現を用いれば、類似点が見え隠れする。

だから、現実は夜空に浮かぶ星座と同様、と。

何が正しい、何が間違いと、断罪的に言い放つだけというのは、現代の異端審問、魔女裁判なのでは?

人間が人間に与える影響となると、相当に複雑なわけですが、そこを自分で説き伏せられる根拠を作らなければ、足元が掬われてしまう。

でも、足元が掬われたことだけを覚えてて、自分の悪さ、至らなさを忘れるという、ね。

人間どうしても、悪い部分だけ覚えてしまうという。

不安になる、悩む、抑うつになるだけではなく、無自覚のうちに無責任をやらかす原因にもなってると思います。

それが過ぎれば、かまってちゃん。

でも、過ぎなければ良いってわけでもないんですよね。

傷ついた側にとっては、傷つけた側の言い訳、自己弁護、都合が悪い者からの逃げであることには変わらないわけです。

そしてこういう部分には、言葉にしてなだけ、という。

蔑み、侮り、侮蔑、侮辱というような心理も、少なからず抱えてしまうのも人間ですし、そういう時の表情の動きや、声の抑揚の変化という、些細過ぎる部分も嫌でも感じ取ってしまう。

だから、人間って嫌いなんだよ、もう...。

HSPブームで一時期言われてた深い処理というのは、そういう都合の悪さから線引をして見ないようにしてる部分すらも。

既に踏み込むのが当たり前だから、と。

善悪や正誤以上に、現実として。

なぜ、人はそういう行動をするのか?そういう言動をするのか?と。

深く掘り下げるからこその部分の話ですよ、ってね。

そうあるなら、自分で話を作った上で、話せなくもないんですよ。経験として、嫌でも、見ようとして無くても。

目や耳という感覚器から受け取った情報を脳が処理して、記憶すらしてくれてる。

だからこそ、おかしいだなんだ、と。

言われるほどにあるから、もう分かってると言わんばかりに言ってしまい、それこそ異端と言わんばかり。

少数派どころか「お前しか居ない」と。

良いも悪いもを自分以外の誰かが、話を聞かないまま勝手に持ち出すわ、扱うわするだけでなく。

それをもって、そういうつもりはないと言いつつ、否定という断罪を行う。

なんでこう、目の前に当人が居て、今しがた話を聞いたのに、人それぞれ違いがあるというのを理解してるのに。

お前は異端だ。

そういう扱いを受け続けるのか、っていう、ね。

って、後半は個人の話が多くなってしまいましたが。こういうのって、今でもまだまだ続いてます。

すみません、が様々に使われるだけでなく。

ごめんくださいという、意味が同じなのに、違う表現もあるんですよ。

謙譲語だ、丁寧語だ、なんだと、混乱してしまうのも、こういう部分が理由という。

せーんろはつづくーよ、どーこまで、もー。

そういう歌のようにつながるんですよ、ね。


あとがき

どうにもこうにも、見える聞こえるだけでなく。

脳での情報処理

こういう部分までも含めて、違うんですよね。

それ程に見えてしまうし、だからこそ、つながりもする。そして、それに対して、思いつきで言うだけでなく、幼い頃から今まで人間観察を自然とやってしまうからこその、それは何故か?をやってしまう。

それ故に、哲学的だな…とか、哲学に興味あるの?とか。

そういう言われ方もするわけですが。

個人としては、哲学ではなく人間心理の追求ですが?になりもする。

でも、哲学かもしれないよねぇ、というのは一理あるといわんばかりに、相反するものであれど一応考えるし、一応受け入れる。

個人として、ことわざを表現に用いますが、ことわざを知る以前からそうあって、後からことわざを見たことで、古い時代でもそうなる人って居たんだなぁという。

ことわざと、自分の行動がどうこうではなく、ことわざとして何故できあがるのか?みたいな所に最初に視点が行く。

自分が優位になれる立場なら、相手を見下すかのように。

その割に逆の立場になれば、感情的になるだけでなく、下手すれば自己弁護のために相手が悪だと、話のすり替えをしようとする。

こういう部分からも、目先だけではなく、深く洞察、観察する、流れを読む、考えるという、ね。

慎重さ、冷静さも必要ですよ?と。

新しく言葉を持ち出したり、作ったりしてるのは、なんていうかこう、ね?

考える暇を奪うという。

情報を過剰に供給することでの目くらまし。そういう部分もあります。

だからこそ、リテラシー=読解記述力という、情報に流されるだけでなく読み解く=読み解くだけでなく、考えて深堀りして、自分に落とし込むのも必要ですよ、と。

ネットってそういう環境だと言われてるのも、理由や根拠、背景、意図、目的という。

研究論文でなくとも、それに近しい物を読んでれば、一定の肩書がある人の言説ってそういう、筋道を立てて話をすすめる作りになってるものです。

うん。

字の羅列で読むの面倒クセェw

え?サラッと読めるじゃん?そういうの。

もしかして、言語化が苦手な…おっと。

違いが過ぎてると言われるからこそ、持ち出そうと思えば持ち出せる情報=言葉の凶器すら持ってるんですよ。

でも、道具は使いようなので、誤らなければ凶器たりえない、というものもある。

言葉もそういうもののうち、ってね。

それでは。

いいなと思ったら応援しよう!