怪獣のルーツは天皇制にある
日本特撮は『キングコング』から産まれたと言っても過言ではない。
「特撮の神様」円谷英二氏は、外国から取り寄せた映画『キングコング』のフィルムを分解し、一コマ一コマ徹底的に分析したという。
氏が特撮監督をつとめた『ゴジラ』では電車を襲うシーンがあるが、構図等、「本家」と非常に似通っている。
そんな氏が手掛けた和製キングコング作品として、私の心に残るのが
初のTV特撮番組『ウルトラQ』第2話「五郎とゴロー」(1966年放送)だ。
あらすじ
五郎という唖の青年は、親も兄弟もない天涯孤独の身。だが彼には人間同様に暮らしている最愛の椋がいた。
村人達はそんな五郎をエテ猿と呼び、猿の方をゴローと呼んでいた。
ある日、野猿研究所の薬品倉庫が何者かに荒らされ、青葉クルミが紛失した。足跡から、犯人は猿とすぐに判明したがこの青葉クルミを多量に食べると、甲状線ホルモンに異常をきたし、巨大化するので所員は吃驚する。
数日後、ロープウェイに雲を突くような巨大な猿が現われ、観光客を愕然とさせた。所員の心配どおり、青葉クルミを食べたゴローは巨大化してしまったのだ。
五郎は巨大になったゴローのために、盗みを働いて彼の食料を集めていたが、村人たちに捕えられ留置場へ入れられてしまう。その五郎を求めて、ゴローは街に現われる……。
「ウルトラQ・あらすじ集」より
最終的に、ゴローに睡眠薬入りのミルクを飲ませ、彼と同種の巨大猿が生息する島へ運ばれる事となる。
完全に、周囲の善意で実行に移された。
何も知らされずにミルクを与えてしまった五郎の、悲痛な叫び声で物語の幕は降りる。
両者の違いと2つの解放令
結果として、
五郎は冷たい世間にひとり取り残され、ゴローは国から追い出された。
人は差別を受け、怪獣は排斥された。
この差は何だろうか。
単に人間と動物だからではない、その裏にはいかにも「日本らしい」「特撮らしい」仕組みが潜んでいる。
差別と排斥は似ているようで全く違う。
日本では古来からこの2つの仕組みを利用してきた。
1871年の解放令と
1872年の芸娼妓解放令の違いが分かり易い
前者は、穢多非人等の称や身分の廃止など、
後者は、遊女の人身売買の規制などを目的とした太政官布告(法令)だ。
両者の文面を見比べると遊女には「解放」という表現が使われ、
穢多非人には「編入」という表現が使われている。(上杉聰「天皇制と部落差別」より)
「解放」は既にコミュニティの中にいる者に対する行為
「編入」はコミュニティの外にいる者に対する行為だ。
つまり
遊女はコミュニティ内で差別される存在で
穢多非人はコミュニティ外に追いやられた存在だったのだ。
前者は五郎、後者はゴローの扱いを想起させる。
日本特撮は天皇制の影響を受けている
この「排斥」の仕組みは、日本が天皇制を選択した影響でうまれたとされている。
1世紀に倭の奴国が後漢の光武帝から漢委奴国王印を授けられた話はどの教科書にも書かれている。
日本という国は中国の属国として始まったと言っていい。
「天皇」という呼び方そのものが中国伝来という説すらある。
天皇を象徴に対抗・自立しつつ、中国を先進国として崇め、
それ以外の国を文化の低い蕃国(野蛮な国)として排斥してきた。
これが日本古来から存在する「排斥」の仕組みのルーツであるとされる。
「コミュニティの内と外」の意識を作ることにより、結束を強めてきたのだ。
聴衆を纏めるために悪役を用意する方法は、かの有名なスティーブ=ジョブスがプレゼンでよく使っていたテクニックの1つでもある。
差別も排斥も、コミュニティ運営の為の有効な手段であることは、認めなければならない。
認めたくないが。
ヒーローも怪獣も「排斥すべき存在」
最終的にヒーローも怪獣も消えてなくなるのが、特撮作品の定石である。
怪獣は毎回爆ぜているし、『ウルトラマン』最終話ではウルトラマンはM78星雲に帰って行った。
仮面ライダーにしろ何にしろ、ほぼ例外なくそうなっている。
直接危害を加えてくる怪獣は勿論、それを退治したヒーローもコミュニティの人間からすれば脅威でしかないからだ。
現実的にも、我々はそういった構造の中に生きている。
だからこそ、「怪獣」はコミュニティ外からの訴えの具現化として機能しうる、優れた・魅力的な表現技法であり続けるのだろう。