『アルフィー 50周年 ファン物語 夜明けのLANDING BAHN』
THE ALFEEが今年で50周年を迎える。昭和平成令和の半世紀に及ぶ活動期間。シングル58作連続TOP10。日本初の単独10万人コンサート。日本初の単独オールナイトコンサート。通算コンサート本数3000弱。70歳にして衰えぬ観客動員力。彼らは世界的にも稀有な存在だ。
そんなアルフィーが50周年を迎えるということは、ファンにもアルフィーと歩んできた長い歴史がある。みんな人生のどこかでアルフィーに出会い、アルフィーの歌や存在に支えられ、時に離れたり寄り添ったりしながらもアルフィーと共に年齢を重ねてきた。アルフィーの歴史はファンの歴史そのものなのだ。
この文章は私が取材した、ある1人のアルフィーファンの人生から語られるもうひとつのアルフィー物語。
-福井県 50歳 専業主婦-
朝日が二人の乗る車の影を残して、雪に覆われた車道をゆっくりと走る。あくびをしながら横目で助手席を見ると髪がボサボサの娘も眠そうだ。県外の高校へ通う彼女を毎朝駅まで送迎するのが私の日課。車内には「GOING MY WAY」が流れている。うちの車のHDDはアルフィーの曲で埋め尽くされていて、チャイルドシートの頃から聴かされている娘も今ではすっかり飽きて、自分のスマホで違う音楽を聴いている。親に洗脳されたおかげでアルフィーのほとんどの曲を歌えることは学校の友達には黙っているらしい。娘を駅に降ろして、また夕方ねと声をかけると曲は「SUNSET SUNRISE KISS」に変わった。朝日に目を細めながら帰り道を走り始めると、私は必ずあの日の朝日を思い出すのだ。
福井県の平凡な家庭に生まれた私は何不自由なく育った。両親は公務員で真面目。私も親の言うことをよく聞く真面目でおとなしい女の子だった。小学生から始めた剣道に夢中で、クラスの女子が好きな流行りの音楽には興味がなかった。でも、その時は突然訪れた。1986年、高校2年生の夏休み。剣道の練習から帰って扇風機の前でぼんやりテレビを見ていると、ブラウン管に映った映像に釘付けになった。福井県の人口より多いほどの人の海がひとつのステージを見て熱狂している。日本初の単独10万人コンサート、TOKYO BAY-AREA。私はその光景に一瞬で吸い寄せられた。こんな世界があるんだ。何か運命的なものに出会ったような気がした。もう35年も前なのに、胸のときめきと、3人が階段を駆け上がるシーンと、夕食の時両親に興奮気味に話したことは今でも覚えている。高校教師だった父親は「それアルフィーだよ。新聞に載ってたよ。メリーアンの人。うちの生徒にも行った奴いるかもな」と言った。私は込み上げる欲望を口には出さなかった。自分の娘が来年はこれに行くと言い出すなんて、この時は両親も夢にも思わなかったはずだ。
その日から田舎の地味な剣道少女だった私の生活はアルフィー一色になった。真ん中のアフロヘアーのお兄さん、坂崎さんが大好きになった。音楽番組を録画して、ラジオを聴いて、ドーナツ屋のアルバイトで稼いだお金は全部レコード代に消えた。部屋に貼ってあるポスターを見た父親は何も言わなかったけれど、母親は「右の人がかっこいいね」と言った。そうしてアルフィーに没頭して1年が過ぎ、高校3年生の夏になった。
私はその年の夏のイベント、SUNSET-SUNRISEに行くつもりだった。去年テレビであの光景を見た瞬間から決めていたことだ。お金はチケット代からバスツアーの旅費まですべてバイトで貯めた。オールナイトの18歳未満入場不可の年齢制限も4月に産んでくれた母親のおかげでパスできた。あとは両親が許してくれるかどうか。中部北陸地方からほとんど出たことのない未成年の娘が1人で静岡まで行って徹夜で朝まで騒ぐことに、ドーナツ屋のバイトの行き帰りも心配するような父親が賛成してくれるとは到底思えなかった。チケット発売日前日、私は反対されたら諦めようと弱気になりながら、ベイエリアの興奮を伝えた1年前と同じように夕食の時に話そうとした。すると突然父親が「明日アルフィーのオールナイトコンサートのチケット発売日だろ?取れたら行って来なよ。親戚にも頼んで電話するの手伝ってあげる」と言ったのだ。私は箸を置いて泣いた。後に母親に聞いたところによると、部屋のカレンダーのチケット発売日に丸をつけて必死にバイトに行っていたことで父親にはバレていたらしい。父親は最初反対したが、母親が「あの子剣道やってるんだから襲われても大丈夫よ」と言ったら納得してくれたらしい。私はこの時初めて剣道をやってきて良かったと思った。でも、竹刀は持って行かないんだから襲われても関係ないだろと思った。
1987年、高校生最後の夏。私はこの日のことを細切れにしか覚えていない。きっとあまりの初体験の連続と興奮と感動で記憶がどこかに行ってしまったのだろう。前日は興奮して眠れずに、楽しみにしていたはずの行きのバスは酔ってひたすら寝込んでいた。隣の席になったお姉さんが心配してくれて、酔い止めとファンタグレープをくれた。会場の雰囲気は同じものが好きなみんながいる安心感と一体感が心地良く、降ったり止んだりする雨がそれを一層強くさせた。ペラペラのカッパをひとつしか持って行かなかったから下着までびしょびしょだった。オープニングでモニターにベイエリアの階段を駆け上がるシーンが映し出された時は、去年の夏に福井県のリビングで同じシーンを見て今日の日を願った自分がシンクロして泣きそうになった。恋人になりたいで幸ちゃんの声が聴けた時は興奮したし、第二部はメモリアルチケットのレジャーシートに座ってウトウトしながら明日なき暴走の果てにを聴いていた。夜明けのLANDING BAHNの時に見れた薄青く光る駿河湾と朝日と富士山の輪郭は一生忘れない。それでも一番鮮明に覚えているのは、休憩時間のトイレの行列だ。私は途中で諦めて席に戻った。剣道の防具を脱ぐのは一苦労なのでトイレを我慢するのだけは得意だった私はここでも剣道をやっていて良かったと思った。大音量とぐじゅぐじゅの芝生、徹夜で騒ぐ背徳感、刻一刻と幻想的に変化する自然の演出、誓いの朝日を共に迎えた6万人の絆。初めてのアルフィー、初めての徹夜、初めての一人旅。ファーストキスもまだだった私の初めて尽くしの高校生最後の夏は本当に夢の時間だった。帰宅後、コンサートの新聞記事を父親が見せてくれた時にようやく夢から覚めた気がした。この写真の中に私は確かにいたんだと思うと嬉しかった。
県内の大学に進学してからは、関西圏であるコンサートに時々行ってSUNSET-SUNRISEの時はほとんど見えなかった3人の姿を近くで見られて幸せだった。英語が好きだった私は高見沢さんが目指していた英語の教員免許を取った。だけど教師にはならずに、上京して小さな外資系のデザイン会社に就職した。東京に行ってからもツアーに参加して、初めて日本武道館に行けた時は想像してたよりもずっと狭かったよと父親に報告した。父親は「剣道の大会じゃなくてアルフィーで武道館に行ったんだな」と笑っていた。東京に来て数年経つのに一向に垢抜けない田舎者の私に結婚は無理かなと思っていた頃、取引先の同郷の男性と出会い結婚した。夫はアルフィーに全く興味のない人で、最初の頃は必死に聞かせたけれどそのうち諦めた。最初に離婚の危機を迎えたのは、結婚式のバージンロードを歩く時の曲を私が「終わりなきメッセージ」にすると言い張った時だ。確かに今考えれば学生運動がテーマの曲で、打ち砕いた、君の手を離した、あの日から1人になった、祈りは届かず、というような歌詞の曲なんだから夫が怒るのも当然だと思えて笑える。でも私の中では彼氏ができる前から決まっていたことで、さよならlonelinessという歌詞とマーチのリズムが結婚式の妄想には必ず流れていた。結局夫の意見を聞き入れてFLOWER REVOLUTIONにした。母親は自分の結婚式でもないのに最後までBELIEVEがいいと言っていた。
夫の転勤で福井に戻った私は2人の娘に恵まれ幸せな家庭を築くことができた。子育てや義父母との関係もあって独身の時みたいにアルフィーに没頭することはできなくなったけれど、相変わらず新曲が出たら買っていたし、朝のお弁当を入れる時はアルフィーを流してうるさいと夫に言われたりした。それでも夫は毎年年末の大阪城ホールには気持ち良く送り出してくれたし、子供たちはグッズのお菓子を楽しみにしていた。次女は小学生の頃3回大阪城ホールについてきて、赤ちゃんの頃から聞かされていたおかげで私よりも一緒に歌って楽しんでいた。タイムマシンに乗ってBAY-AREAの映像を見ている高校生の時の私に「あなた20年後は自分の娘とアルフィーのコンサートに行ってるよ」と言っても絶対に信じなかったと思う。
長女が高校受験を控えた冬の寒い朝、父親が亡くなった。お葬式を終えて自宅に帰る車の中でアルフィーを聞いていると、そう言えば父親がSUNSET-SURISEに行かせてくれたから私は今もアルフィーと一緒なんだなと思った。行っていいよと言われて泣いたあの夕食の時と同じように、私は泣いた。
夕方になっても降り続く雪の中、長女を迎えに駅に向かう車内で次女が言った。「母ちゃんってアルフィーずっと解散しないの幸せだよね。高校生の時から好きなアーティストがお互い年寄りになってもやってるなんて。私の好きなバンドなんてもうふたつも解散したのに」と。お互い年寄り、という言葉が気にはなったけれど、本当にそうだよねと思った。次女はHDDをいじってお気に入りのLONG WAY TO FREEDOMを何度もリピートしている。私はまたストーンヘンジのあの夜の一曲目を思い出していた。