白堂

「記憶は戻った?」
「少しも変わらない」
「……」
「目が覚めて、白い壁を見ると、誰かの顔が浮かぶような気がするの。それが誰か知っている人な気がして、でも思い出せない」
「そう。外には出てる?今日も良い天気だよ」
「ううん」
「私と一緒ならどう。林檎の木まで」
「うん。それも良いかな」

何も変わらない。何度ここを訪れても、彼女の在り方は変わらない。
私は頭の中で暦を思い浮かべ、あと何度ここに来られるのだろうと心を泳がせた。
焦燥とは明確に違う、当てのない思索の旅だった。

◁▷

白堂という名前は、既に由来を失っている。
随所の白が映える壁は確かに美しいが、名前の由来と呼ぶには心許ない。外観からして、それは焦げ茶色を基調とした木造の大型施設だった。内観は統一性に欠けていて、ありきたりな寝室のような場所もあれば、趣向を凝らした書斎のような部屋、用途不明の器具が並ぶ殺風景な実験室もあった。多くは生活に不要な部屋で、私も、それらを一目見て存在を知っているに過ぎない。

私が彼女と最初に出会うのは、決まって、こじんまりとした寝室だ。ベッドは揺り籠を大きく作ったような天蓋付きのもので、部屋に対して不釣り合い大きい。
彼女はそこで眠っている。入口側を向くように、横向きに寝ていたところを、入室によって妨げると、彼女はふっと両目を開く。音のない覚醒と共に、彼女はにこりと笑った。

少しの会話を経て、私達は廊下に出る。彼女は点滴スタンドを引きずりながら、曲がりくねった道を歩く。元気そうで何よりだと、二本足で立って歩く彼女を見て思う。ベッドに座る様はあまりにも血肉に馴染んでいるようで、私の目の届かない間は、部屋から一歩も出ていないのではないかという無根拠の疑いがあった。設備の配置を見る限り、生活がベッドで完結することはない。ただ彼女の気質から言って、もしも可能であれば、一生を屋根の下で過ごすことも厭わないのだろうと思えてならなかった。

遠くで鈴の音が鳴っている。記憶をまさぐる、この施設の魔法じみた側面の一つだった。それは想起を促す働きがあるのだと彼女は言う。いつだったか、「誰に聞いたの?」と訊いたことがあったが、答えは返ってこなかった。

「色々な人とこの廊下を歩いたような気がする。鈴の音が聞こえるように、できるだけ静かにこの金属棒を押していた。」
「それは親しい人?」
「多分。家族と同じくらいに大事な人達」

会話の再現性も相まって、私は迷宮に陥ったような感覚を頻繁に覚える。実際、廊下の構造は迷路とは程遠いのだが。偶々、螺旋状の緩やかなスロープを下る途中だったというのもある。

思い出すことの無い私は、彼女と同じ風に聞こえているとは限らない。鈴の音は記憶に染み込むようだ。訪問の度に、意識の溝を透明な液体が流れる。

◁▷

外に一歩出ると、鈴の音は聞こえなくなる。汚れを知らない壁は視界から離れ、雑草の繁茂する地が現れる。
絶えない風の音が、薄らいだ意識を覆う。

私は白堂を取り巻く大地が好きだった。駅からの荒道を踏みしめる靴の音。叢に潜む虫の気配。私が白堂の扉に辿り着くのは大抵は早朝で、種々の鳥の鳴き声が日の出を待ち構えていた。その控え目な賑やかさが好きだった。かつて、祖父母と過ごした休暇を思い出すからだろうか。都会慣れした体であっても、ここの風は様々な好ましい思い出を想起させる。

一方の彼女にとって、それは静かな場所だ。何も思い出すこともない。

「身も心も涼しく感じられる。気持ち良い」

ただ一歩出るだけで、彼女にとっては全てが無くなる。私は白堂の中にいても、彼女の言う暖かさを感じられないから、どこまでも、クオリアを共有することには無理があった。
彼女の心象風景を想像する。それは現実と変わらない、ただ文脈だけを抜き取り、あたかも色が失われたかのように距離を感じる景色。

林檎の大樹を通り過ぎて、丘を少し登れば、見晴らしはずっと良くなる。だとしても、彼女がそこまで歩いていくことは無い。

◁▷

彼女の体温に塗れて数夜を過ごすのが常だった。

地下にはより広い寝室がある。そこは明るすぎる白壁は無く、鈴の音はより遠く聞こえる。部屋は円形で、壁沿いを一周する手すり付きの通路がある。中央の空間は一段低く、キャスター付きのテーブルや書棚、巨大なベッドが置かれている。

二人には広すぎるベッドだった。だから彼女一人の時は、滅多に使われない。それでも、私にとって鈴の音は好ましい音では必ずしもないことを彼女も理解しているので、折衷案として、この奇妙な広間を使うことにしていた。

内装は冷厳な応接間を想起させるが、空調は効いていて快適だ。白堂という建物の全ての部屋がそうであるように、過ごしやすい温湿度が保たれている。

眠りに落ちるのに快適な場所を探す内に、自然に、身体を絡めあうようになる。私は彼女の髪を弄ることを好んだ。亜麻色の髪に顔を埋め、静かな呼吸に至る。

「甘えたがりなんだから」
「うん。ごめんね」

目を瞑って、彼女の存在を噛み締め続ける。悲喜交々の思いでが脳裏にちらつく。かといって、それらを言葉にすることはしない。彼女はそれを喜ばない。ここでかつて手に入れた記憶こそが全てで、記憶というもの自体に大した執着はなく、むしろそれらを嫌っているとさえ言えた。

私としても、純粋な夜を汚したくない。


◁▷

ステンドグラス越しに差し込む朝日によって、玄関は虹色に輝いていた。

時が告げられる。私はまたここを離れないといけない。
いつも、彼女がここを離れる様を想像する。もしそうなれば、彼女は点滴に頼った生活はできなくなる。記憶は、きっと、ここで思い出せなかったものは永遠に失われる。

それも良いのかもしれない。最初から何も無かったと思えば、何も失っていないも同然だから。

「もしここを出ることになったら、私を見つけて。きっと養うから」
「養うってどういうこと?」
「貴方が何もしなくて良いようにする。今まで通りに生きていけるように。」

「貴方が一人でここを出るのは心配だよ」
「確かに、変わることは怖い」
「でも、思い出したらどうしたって変わってしまう」
「そうだね」

言い淀む彼女を見て、表現を間違えたことに思い至る。彼女にとって、思い出すことは戻ることでしかない。
譬え実態が不可逆的な変化であろうと、彼女にとっては回帰だ。

彼女はずっと、その瞬間を待っている。

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