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アイドル

体力衰え期間。土日とも午前中いっぱい寝た。でも今日はそのあと、お昼ご飯を食べに外に出て、街の古本屋で本も買い、帰宅後は窓辺の光で読書もして、シャワー浴びたらありスパの配信を観ながら弁当のおかずを作って、スキレットの下準備もして、振り返ると結構やることやれたじゃんという感じもする。あ、あとつみたてNISAの口座開設手続きもしたわ。

昨日は特に、向いていないと分かりきっていることをやって疲れた。
似た者同士が集まるものとはいうけれど、逆に言えば、似てない者同士が一緒にいる状態はやはりどこか不自然だ。ちょうど人から借りて読んだ漫画で、主人公が「同じ方向に偏っている人間といるとこんなに楽だとは」「やっと言葉が通じる宇宙を見つけた気がする」というようなことを言っていた。人間、使用している個別言語が同じでも、もう笑えてきちゃうくらい通じ合えない。
誤解を恐れずに偏見を述べると、通じ合える相手が多い人というのは概して、自己の「深部」とでも言うべきものを他者と共有することがない人だと、少し思っている。共有しない理由が己の「深部」を「自覚はしているけれど絶対の壁を築いて守っている」からなのか、「自覚していない/必要としていない(関心がない)/持ち合わせていない」からなのかは、人それぞれだと思う。それはそれで良い、というか、それはきっと良いことだ。規範とか普通とかいうものに則った以上の理解を、自分もしない代わりに、相手にも求めないのだから。
殊更に悲観するわけではないけれど、30年生きて、自分という人間は多くの人と通じ合うことはできない星に生まれたのだと理解している。集団の「自然」がどうしてそうなるのか分からないこと、発した言葉があまりに意図の外で受け止められることを幾度となく経験して、もういい加減に受け入れた。受け入れてはいるけれど操縦できるようになったわけではないから、疲れたり落ち込んだりはする。でも落ち込むたびに思う。結局、理解し、理解されることを望んでいるのだと。いや、コミュニケーションの目的は相互理解なんだからそりゃそうだろ、という向きもあるかもしれないが、相手が目指していない地平をこちらが一方的に目指しているのかもしれないと思うと、なんだか滑稽なような気もしてくるのだ。

そういう意味でやっぱり本とか音楽とか美術は良い。外界で摩耗した精神を癒してくれる。人と接して生まれた疲れを人が生んだ芸術が癒す。彼ら自身が、日常の中で溜まった澱、時代や生活の中で満たされない衝動や祈りや、その他いろんなエネルギーを孕んでいるからなんだろう。同じ方向の偏りが、対人よりずっと容易に見いだせる。呼吸が楽になる。
向き合い方の自由もある。ひとつの作品のある1点にだけ、どんなに感情移入してもいい。ひたすら考察してもいい。スタンスだけ、文体だけ、色彩だけ、作家性だけ、曲調だけ、声色だけ好きになってもいい。偏りが許される。

本当は対人だってそれで良いのかもしれない。実際に人間関係が上手な人はそうやっているように見える気もする。でもできないんだよな。そうじゃない星に生まれちゃったからさ。


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