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映画感想(『覇王別姫/さらば、わが愛』)

こんばんは。およる。
映えか?映えなんか?というような今の状態の写真。蛇柄レスポの中にはiPadとピンクのキーボードが入っています。わぁお。何?いや、だから何?自分で自分をカテゴライズしたり、自嘲・冷笑ポーズをとるの、おやめなさい。

めんどくさい始まり方をしてしまいましたが、日記。

映画『覇王別姫』を観た。昨日。
『新聞記者』ぶりのアップリンク吉祥寺、記憶の中のそれよりも綺麗で、同じく吉祥寺のオデヲンと混同していたのかもと思った。
杉並4駅を挟んだ新宿と言っても差し支えない気がする吉祥寺なんだけども、マス映画を放映する大手のシネコンはそういえばなくて、新作を上映するオデヲンよりミニシアターであるアップリンクの方が大きくて綺麗なの、吉祥寺が吉祥寺たる所以だよなあと思う。
しかし久しぶりの吉祥寺楽しかったなあ。中央線を離れたこと、日々着実に後悔しているけど、後悔ポイントがサービス加算されました。いつもが石ひとつ/日だとしたら、昨日だけで石みっつ分ポイント積もった。

『覇王別姫』は友人のおすすめ映画。エモ映画といえばこれだ、と教えてもらったことがあって、今般の劇場上映を知ったのでお誘いして行った。

業……ッッ

「業が深い」という感想、「やばい」の次くらいには簡単で、これで済ませるのは怠慢だと思うのですが、それでもあえて言いたいいや言わずにはおれない、「業が深い」と。

程蝶衣、もとい小豆子だけ、感情のやり場がなさすぎるんよ。
女だったら母親に見捨てられなかった。女だったら遊郭で育っていた。それも不自由な身の上に変わりはないのだけど。だからこそ憎しみが増すわけですよね菊仙に対して。嫉妬するよな。石頭は当然のように異性を選ぶ。自分の居場所が奪われる。遊女に捨てられて、遊女にかけがえのないものを奪われる。
京劇なら自分は女性になれる。大王と虞姫になって、石頭の愛する女になれる。それが小豆子が芸事に魂を捧げて、時には実利のために身体も明け渡して、その他にプライドなんか何にも持たないで生きてきたモチベーションだったんじゃないかと思う。

「エモい」ポイントは人それぞれだろうけど、私的にはこの、小豆子と菊仙の表裏一体な関係性だった。
だってさ、同じ「石頭の考えなしの大胆さに救われてしまったがために傷つく運命」を背負ったのは言わずもがな(この作品のファンは、石頭に対してどういう感情を抱いてるんでしょうか。結構ヘイト向いてない?大丈夫そ?少なくとも私はやっぱり好きになれない)、例の剣のことも石頭は結局最後まで思い出さないのに、菊仙はなんか察していて、文革の晒しの後も死守してくれるわけよ。二人には二人だけにしかわからないものがある。
「小豆子だけ感情のやり場がない」って書いたけど、強いて言えば菊仙は恨みや嫉妬をぶつけられる対象として存在していたところがあったと思う。菊仙、あんだけ夫に薄情を突きつけられてしまってさ…そりゃ脱落したくなっちゃうよ。幾度となく絶望させられても、奇縁や菊仙の存在があったからここまで生きてきたけれど、いよいよもってHP残ってないよ。

書いてて昨日より気付けたのだけど、そうか、小豆子は純粋に京劇を愛しているのだと思っていたけれど、女形になれる芸だから固執していた、という部分があるのか?衣装や何やらを一新するネオ京劇への反発も、「時代の変化に適応できない・変化を認められない」ということを描くのと同時に、従来の変身ができなくなることに抵抗していたのか。
石頭はマジで褒める意味でなく「罪な男」で、少女漫画みたいな守ってくれ方をする、そうやって身動きが取れない人間の心を掴む割に、本当に何も考えてないやつなので、その落とし前をつけないんだよな。漫画で上述のようなことをする考えなし系ヒーローは、翻らないのよ。しかしこいつは…(文革晒し者シーンで、ああ、なんやかんや小豆子に対して濁ったクソデカ感情を持っとるんやん、とは思った)(でもそれをもう少し自分で自覚しておきなさいよ)。でも鳥籠の中の鳥のように、あるいは水槽の中の金魚のように自由のない身の上でそんな奴に救われてしまったが最後、心は囚われてしまうもの、なのだろう。これもまた業。
話を戻すけど、だから菊仙が死を選んだことは、最後のあの「運命」に収束していくことに結構寄与していたのかなと思わなくもない。もっともそれこそ二人の結婚が決まった時に小豆子は一度「運命」をなぞろうとしていて、でもそれは相手が石頭じゃなかったから頓挫した。じゃあ完璧に条件が揃った時、決行しちゃうよねっていう。石頭は想像もしてなかっただろうな。

社会と自己の乖離を芸術への情熱にして、社会の変化をうまく受け入れられず、理想の中で死にたい。ごめん、正直途中から「公ちゃんこと平岡公威、こと三島由紀夫じゃん」って思っちゃって仕方なかった。なんでもゆっきー病かい。そうです。途中宮澤賢治みたいなこと言ってたけど。
でも公ちゃんフィルターを通したことで石頭の無思想さを変容する社会のメタファーとして受け取れたので、まあ、まあまあ。

日本による支配、文化大革命と時代にめちゃくちゃ翻弄されているのだけど、時代以上に石頭に翻弄されてる、って思っちゃう、いやそもすべては時代ありきで起きていることなんですが。鑑賞直後はわりと政治的な部分の重さにも感じ入っていたのだけど、これを書いている今は純粋に精神性の方に意識がいっているな(加筆するかもしれない)。
文学的比喩というのか、対比構造やメタファーの演出がたっくさん。ボリューム的にも内容的にも重みのある良い映画をひとつ知ることができた。
特にラストの「女として生まれ…」と「間違えてしまう」序盤に対して「男として生まれ…」と「間違えない」ところ、「現実」の残酷さが浮き立ってきて、すごく悲しくなった(伝われ)。30年前の作品かぁ…。

まだ書きたいことがあるような気がするのだけど、次にスマホを開けるのはこれから観る『バービー』レイトショー明けで日付が変わってしまうので、投稿記録のキープのために、いったん、これで。足もと気にしてやっていきます。

それでは。

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