今年の漢字と「子育て」という言葉について思うこと
毎年自分で決めている「今年の漢字」。今年は1月に入籍し、3月から産休に入り、4月に息子が生まれたことで、ひとりで好きなことばかりしていたこれまでとは趣を異にする1年でした。
そんな私の1年を表す漢字は、「慈」。
私は小さい頃から変わっていくことや別れていくことが苦手で、「お母さんやお父さんが死んじゃったらどうしよう」と想像してはたびたび布団を涙で濡らしていましたし、自分の卒業式や職場の卒業式で毎回号泣したり、3月31日にこれまで1年間一緒に働いてきたチームが解散してしまうことを悲しみ落ち込んだりしてきました。
でも、年齢を重ね、身近な人の死という絶対的不可逆的別れの経験が増えたことで、変わっていくこと、別れることを悲しむのではなく、今この瞬間を心から大切にしようと思うようになりました。
この1年はその気持ちがこれまでで1番高まった年だったように思います。
私にとって、仕事のことを考えずにのんびり息子と24時間一緒にいられるのは次の4月までの期間限定。仕事と家庭を両立できるように工夫できるところは工夫したいと思っていますが、自分の仕事がそんなに甘いものではないことも分かっています。息子を産んだその日から、私の心のどこかでは仕事復帰までのカウントダウンが始まっていました。
また同時に、ネットを見ればすぐ出てくる乳幼児の窒息死、事故死、突然死等の情報に怯える日々でもありました。あぁ今日も1日無事に命をつなぐことができたと感じることが何度もありました。命とは、生死とは、人間の預かり知らぬ力が働くものであり、どんなに気をつけていても失われるときはあり、どんなに大きな過失を犯しても大丈夫なときは大丈夫。私たちはただ与えられた目の前の出来事を受け入れるだけであると考えているので、この1年間息子も私も、そして夫もいつどこでどんなことが起こっても後悔のないようにと、これも心のどこかにいつもありました。
その、今この瞬間目の前にいる人を心から大切に思う気持ちを一言で表現するならば「慈しむ」であると感じています。そして、1日1日を丁寧につなぎ合わせながら1年を無事に過ごせたことに対する感謝の気持ちこそが、私にとっての幸福感なのだと思います。
このように考えたときに、「子育て」とは親による能動的な行動ではないのだと感じるようになりました。私は息子を育てているのではなく、息子が育っていく様をそばで見守らせてもらっている。もちろんご飯をあげたりおむつをかえたりお風呂に入れたり寝かしつけをしたり、息子がまだ自分ではうまくできないことを手伝うことはありますが、その行為は「育てている」というより「お世話をしている」感覚。
私が何か家事をしているときに、息子が抱っこしてほしいとやってきたり、遊んでほしいとぐずったりしたときに手を止めるのか止めないのか、寝かしつけのときに抱っこするのかしないのか等、どのような対応をするか正解がない場面もたくさんありますが、それらの選択は、息子のためにやっていることではなく、全て私の自己満足。
息子に対して私が行う行為のひとつひとつは「育てている」という言葉ではなく、「慈しんでいる」という言葉の方が私にとってはしっくりくるなと今は考えています。
なんて、今は子どももひとりしかいないし、仕事もしていないし、時間がたくさんあるので悠長なことを言っていられますが、来年度仕事に復帰したらどうなるでしょうか。
また、これからもっと自我がでてきて、言葉がでてきて、自己主張をするようになったとき、「子育て」という言葉に対して同じような考えを抱くのでしょうか。
来年の今頃、この文章を読んだ私はどのようなことを感じるでしょうか。
すべてのことは時とともに変化していきます。私自身も変化していきます。そうした変化を楽しみつつ、それでもこの息子と過ごした最初の1年に感じた「慈しむ」気持ちを原点として2022年へと進んでいきたいと思います。
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