母の話

一年前に母が亡くなった。

自宅のリビングにはさも当たり前のように一人用の寝具が一式敷いてあって、それが我が家のスタンダードだったのだけれど、少し寒かったらしいその日はきっといつも通りに布団に潜りテレビを観ながらうとうとと微睡み、どうやらそのまま逝ってしまったようだった。一緒に暮らしていた父が仕事から帰宅し「ただいま」と声をかけ、着替えるために自室に戻った少し後、異変を感じたらしい。それくらい穏やかだったようだ。口をぽっかりあけて、眠っているようだったそうだ。



母が亡くなる直前の1ヶ月半ほどは一切連絡をとっていなかった。
わたしが見限ってしまったからだ。


母が亡くなる約2ヶ月前、父から突然連絡があり、
「母は今海外にいる。心臓が止まって倒れたそうで今はICUで治療中コロナ陽性」と知らされた。

もともと肺に持病を抱えいくつかの薬を服用して過ごしていた母は、どう検索してもヒットしない怪しい雰囲気満載の、国籍もわからない外国人のありがたい話を聞きに講演会のようなものに行っていたらしい。

母は昔から何度か大病を繰り返し辛い治療に当たってきたせいか、民間療法的な物に手を出しがちで、一時期は“創世の水”という一升瓶に入った水を愛飲していた。何度目かの入院の際に段ボールに入った何本かの一升瓶を父に運んでもらっているのをみて、一緒にいた姉と目を見合わせてドン引きしたものだ。幸い数年後に創世の水は製造終了したのだが、その後は水素水を愛飲しマイボトルに詰めて映画館に持ち込んで飲んでいた。

コロナ禍を理由に、家がある関東から遠く離れた三重県にある母の実家への帰省も控えていたのに、一緒に住んでいるが故に隠し切ることができない父にだけ行き先を告げ海外に行き、何がどうなったのか、心臓が止まってしまったらしい。
60代で、どれくらいの時間かはわからないが一時的に心臓が止まり、持病も既往症もありさらにコロナにも罹患していたにも関わらず、母は特に目立った後遺症等もなく無事に回復した。

入院中からメキメキ回復し、現地の病院から家族のグループLINEに送られてくる母のメッセージにあからさまに絵文字が増えた頃、母の持ち前の傍若無人というか、軽挙妄動な言動が目につき、つい噛みついてしまった。


母が目覚める前、当然のことながら母の家族に連絡をしていた。ただ、高齢の祖母に精神的負担をかけるのはできるだけ避けたいという思いから、母の弟にだけ連絡を入れていた。メッセージのやり取りをする度に若干ヒリつく程度には仲のよくない姉弟ではあったようだが、父か姉か、連絡をしてくれていた。

「全く、なにしとんのね」
と、まぁこんな感じのメッセージが一言だけ、母の携帯に届いていたらしい。

原文はそれはそれはバチバチの方言が本当に一言添えられていただけなんだけれどそれはどうでもよくて、とにかく、もう目が覚めることがないかもしれない、もしかしたらこのメッセージが読まれないかもしれないとわかっていて、どんな気持ちで叔父がこのメッセージを送ったのか、それを考えるととても苦しくなった。
決して良好とはいえない関係性の中で溢れた精一杯の優しさだと思った。

ただ実際に送られてきた方言は人を見下すような表現でも使われることがあるらしく、母は大いに戸惑いそして腹を立てていた。そして、誰か叔父に連絡したのか?とわたしたち家族にメッセージを送ってきたのだった。

それにわたしが噛みついた。

散々心配と迷惑をかけて、まだ自分だけのことを気にしているのか。死にかけていたのに。

これまでどうにか踏ん張って、仕事の合間に膨大な量の各種手続きをしたり、電話の呼び出し音に体がびくつくほど神経を尖らせて各種関係者と連絡をとっていた家族のことを思ったら母のことを擁護してあげる気にはとてもじゃないけどなれなかった。

“親が絶対”というTHE・昭和の環境下で育った母が、家族内で一番の年少者であるわたしに噛みつかれて黙っているはずもなく、嘆き悲しみ怒り狂い、最終的に死にかけて助かった人が一番言ってはいけないことを言ってしまった。

サァーーッと、家族内の温度が下がっていくのがわかった。あくまでLINE上でのやり取りだったけれど、瞬間的に既読の数が増えるのと同時に溜息が聞こえた気がした。

それからわたし個人は一切の連絡を取るのをやめ、いつか、(そろそろ決着をつけるか…)と思える時が来るかなぁ、それまで気持ちとも母とも距離をとっていてもいいかなぁ、と自分の中で納得させようとしていた頃に母は逝ってしまったのだった。


ずるいと思ってしまった。
勝ってるかどうかはさておき、ほとんど勝ち逃げじゃないか。

子どもと疎遠になろうとも、言いたいことを言って残された時間でやりたいことをやって住み慣れた自宅で布団とストーブで暖まりながら眠るように逝ってしまうなんて。


母は、亡くなる直前まで全力で楽しんでいた。父との二人暮らしで一体いつこんなにも皿を使う機会があるというんだ、というくらいすでに家に皿が溢れているのに、友達と益子の陶器市に行って皿を買い足したり、帰国後間も無く仕事復帰をしたり、亡くなった月の月末にもランチに行く予定をしていたと、約束を取り付けていた母の友達から教えてもらった。母の身辺整理のためカバンの中身を整理していたら亡くなる前日付けの玉置浩二のライブの半券も出てきたし、どうやら数ヶ月後にどこかの製作所からとびきり上等のフライパンが届くこともわかった。めっっっちゃ楽しんでるやん。

まだまだ楽しみたい盛りだっただろうに…と悼んでくれる人ももちろんいただろうけど、こちとら考えすぎの沼にハマってなかなか抜け出せずに、どうにかこうにか掻き集めた“死なずにいる理由”に必死にしがみついて生きているというのに。正直、やられた、と思ってしまった。


母を許容できなかったこと、母を“可哀想な人”と思ってしまっていたこと、世の中に良好な関係を築いている親子がたくさんいるであろう中 自分はそうはなれなかったこと、上っ面の親孝行すらできなかったこと。母とのことがコンプレックスになった。
自分の中でどのように終着させたらいいのか、一向に出口が見えなくて、この一年、母のことに関するまとまった文章が残せなかった。書こうとしても、嫌いだったところばっかり出てきてしまって、何度書き直してもどうにもならずに毎回消していた。
命日を迎えるにあたってどうにか書いてみたけれど、結局悪口まみれになっちゃったし。



わたしはきっとこの先も、母の美味しかった料理よりも、こんなところが嫌だった ということばかり思い出すと思う。
母に買ってもらった物よりも、お土産を買って帰ったのに「これだけ?」と言われたことを思い出すだろう。
最後に交わしたLINEを見返しては、もっといい手段があっただろうかという後悔の気持ちより、どうしてこんな風なメッセージを送って来れちゃうんだと新鮮に腹を立てることができるだろう。

最後に食べた手料理も、最後にした電話で何を話したのかも何も覚えていないけど、守護霊がキリンなのか?と思うくらい大量のストールを所有してたことも、ムカデか?ってくらい大量の靴があったことも、綺麗にひとくち分だけ飲み物を残す変な癖も、たとえ家族が全員揃っていたとしても食べ切れない量のパスタを茹でてしまうことも、さらに「少ないよりはええやん!!」と全く反省しないことも、多分、ずっと覚えていると思う。


そんなことで故人が浮かばれるかどうかはわからないけど、なんか、うん、大丈夫だと思う。
いまのところわたしの夢の中では、相変わらず自由奔放に「もっとこんなふうに葬儀やって欲しかった!もっかいやって!」と悪気もなく駄々を捏ねていたし。
恨み嫉みとかは無い。至って通常運転だ。

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