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言わぬが花電車 知らぬが絶頂涅槃

その人とは初対面だが、今日はまだ出会っていない。初対面は明日だからだ。そうさ、だから明日の話をしようではないか。

いまさら過去についてとやかく語っても、明日の出会いから逃れることはできないのである。むしろ語ることによって過去に引きずられることにもなりかねない。そんな重荷を背負うより明日の出会いを楽しもうという心構えがどれだけ大切なことなのか思い知るべきである。

そのために、まずは今日の此の現実にどっぷりとはまり、抜け出せないほどにはまり込んで、今日という日をどこまでも掘り下げて考え抜き、臆病風に吹かれて明日に向かって逃げ出してみようということだ。

例えば、明日と昨日の狭間にあって、その明日に初対面の人についてである。 その人と我の関係性は本日ただ今において、いかなる形態をなしているのか。

しかし、それを考え抜こうという試みは「明日になればわかる」という四方八方に轟き渡る叫びによって脆くも崩れ去り、せっかくの考察が台無しにされてしまう。
とんだ邪魔者が入ったものである。正直に申せば、その邪魔者とは顔見知りではあるけれども、あまり信頼をおけない存在であり、天地の道理にかなった愚か者である。

もちろん、未だ出会いなき汝には問えぬ事情から、聞くべき対象は今日の狭間のその人ではない。昨日のその人でもない。決して過去を振り返りたくないからだ。
ならば、明日のその人との関係を模索するのは、極めて未来志向的な生きざまではあるけれども、明日は明日の風が吹き、風の前の灯火の如きと、お見受け致しまする。

よし、わかった。ここで、悪者退治の顛末を記した物語の名目上の主人公である彼女にご登場願わなくてはなるまい。つまり、リヤカーの荷台にたくさんの西瓜と胡瓜と南瓜を、彩り美しい花のように並べて、瓜売らず歩く行商人が、公衆の面前で糸瓜で体を洗っているということと決して無関係ではない。

スイカもキュウリもカボチャもヘチマも、うりうり瓜売る気もなく、瓜見せるだけの装飾車両を流行の電動式牽引車で引く。
彼女は今日も現実世界をゆっくりと、しかも、しっかりと進んで行く。そこに戸惑いはないのである。

ここで、蛮瓜・越瓜・胡瓜・東瓜・北瓜の方角が問題になるのだ。
つまり、
「東夷西戎北狄南蛮うずまいているんだよ」 
との、突っ込みが即座に入るのである。

いや、突っ込みじゃなくってさ、ボケて欲しいのよ。
つまり木瓜だ。胡瓜じゃなくて、木瓜をキウリとも読むのよ。

瓜の種に、黄瓜、青瓜、赤瓜、緑瓜、白瓜と、あまたたくさんあれども、夏の冬瓜、インドの紫瓜でとどめと茄子。

こういった展開も、すべては彼女の嗜好からきていることなので、誉めるほどの善行ではないけれども、牽引免許の所持だけは評価してやりたいところではある。かくいう私も、少し疑問を持ったので彼女に聞いてみたことがある。
「熱機関であるのか、電気式発動機であるのか、破瓜なのか、あるいは自転車式動力である否かに関わらず、一輪車でリヤカーを引くのに牽引免許とは恐れ入谷の鬼子母神」
と、まずは挨拶を兼ねて、しきたり通りに礼儀を尽くしたのだ。

この質問に対する彼女の答えは予想どおりに真摯なものであった。
「リヤカー二輪、これに一輪を加わえ、もって三輪車となすべし」

ああ、瓜を突き破りほとばしる。

明日と昨日は、今日なくして動かぬ車の両輪。今日の生き様が、昨日と明日を動かし前へ進みゆくのである。昨日出会って明日別れ、明日の出会いが昨日にある。
なれば明日の初対面は昨日の出会いとも言える。

まさに、
「昨日の三輪車、明日の三隣亡は凶日で、今日はリンボーダンスで一輪車乗り」
とは、このことを言っているのであろう。

忘れてならないのは、
「お座敷の畳の上で花電車をご鑑賞の後は、ここから戌亥の方角にあるお店の泡マットの上でぜひとも三輪車をお楽しみいただきたい」
と、いうお薦めである。

そこにはきっと明日のその人の姿があるはずだから。

はかなき泡のごときの浮世なれば、泡にまみれて飛んではじけて流されて、現の中に消えゆくさだめなり。

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鳴蛍しかと(なきぼたるしかと)
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