連載小説 魂の織りなす旅路#26/魂⑴
【魂⑴】
老人は閉じていた瞼を静かに開き、その何も映し得ない瞳で妻を見た。今日の風は柔らかいねと妻が言う。今日の風は柔らかいねと、老人は頭の中で何度も何度も反芻する。そして、居間のソファーから立ち上がると縁側に向かった。
縁側の籐椅子に腰を掛け、水音に耳を傾ける。竹筒から水鉢へと流れ落ちる水の音。この家を購入したときに、妻の希望で置いた水鉢だ。
2人でこの籐椅子に座り、この水音をBGMによく本を読んだものだった。そのときに妻が淹れてくれたコーヒーの芳ばしい香りが、老人の喉から鼻へと抜けていく。
あれから何年経っただろう。老人の見えない瞳に映る妻は、いつまでも若々しい。僕はこんなに年をとってしまったよ。老人は呟く。目が見えないから、もう本を読むこともできないんだ。
あの空の透けるような青が好き。妻の声が聞こえてくる。あの空の透けるような青が好きと、老人は頭の中で何度も何度も反芻する。
妻は言った。楽しかった思い出もあるはずだと。もし私が先に死んだなら、あなたには私との楽しい思い出を抱えて生きていってもらいたい。私の悲しい顔や渋い顔なんて、1ミリも思い出してもらいたくない。きっとあなたのご両親も同じよ、と。
妻に促されながら思い起こした、両親との楽しい記憶。父の肩車、母の丸いおにぎり、山頂で食べたとろろそば、潮干狩りで採った大量のアサリ、川沿いのキャンプのバーベキュー。今ではどの思い出にも、その思い出を語る自分と、それを微笑みながら聞く妻の姿が映り込んでいる。