Hiphopとの出会いと別れ。
僕には純ちゃんという8歳離れたお兄ちゃんがいまして、あれは純ちゃんが高一の夏休みだったと思うので、1988,89年あたり、夏休み一杯引越しのバイトをしてSony の当時で10万くらいするCDコンポというカセット2つとCDとラジオが一緒になったフレッシュでかっこいいヤツを買ってきました。
僕はその時は7,8歳、純ちゃんと初めて聴いた久保田利伸の”Such a funky thing “ってゆうアルバムにふたりでブチやられまして、特に”Drunkard Terry” や”全ての山に登れ””merry merry miracle”にくらいまくってしまってしょっちゅう聴いていました。
現在わたくし39歳、当時を振り返ると私の好きな音楽の系統や形はこのアルバムとこの2、3年前にお父さんがVHS(ビデオテープです)で買ってきた”we are the world”by U.S.A for Africaに影響をうけた事は間違いないなと思っております。
これも当時幼稚園年長くらいだったとおもうんですけど、実際問題このビデオは1000回以上巻き戻しては見てを取り憑かれたようにやっていました。
もうレイチャールズ、スティービーワンダー、スティーブペリーなどを見て、
「こいつらまったく普通に歌を歌ってねえじゃねぇぇかっ。」
ってことに本当にx100に衝撃を受けましたし、くらいました。
その当時の日本はおニャン子クラブ(AKBの元ネタ)、男組、光GENJI(ジャニーズ)Wink(ハローウェー)が売れていてそれなりにお姉ちゃんの影響で聞いていたんですが、
幼稚園年長さんでスティービーワンダーを知ってしまった僕は”アメリカ人に比べるとクソだな❣️って”密かに思ってましたね😂おませさん❣️
もう一つ加えておくと、U.S.A for Africa ってこれでもかってゆうぐらい当時のドリームチームなんです。
ジャンルを問わず、ダイアナロス、ライオネルリッチー、マイケルジャクソンからブルーススプリングスティーン、シンディローパー、ボブディランもいたし、サイモン&ガーファンクルも参加してました。
その当時の記憶は今でもちゃんとあって、一時期本当に毎日このビデオだけを見ていたので、年長さんでこの歌完全にコピーできてましたね。しかもそれぞれの歌い方込みでの完コピを目指してました。スティービーワンダーとブルーススプリングスティーンの掛け合いはまねしながら鳥肌がいつもたってました。
今考えるとこの頃から将来は海外で暮らすようになるってゆうのは決まっていたんでしょうね。
そっから時が達ち、あれは1995年辺り、色んな曲やアーティストにくらいながらも、まだ稲妻が走る感覚はなかったんですよね。全て鳥肌止まり。あの曲までわ、、、
当時私は中学一年生、純ちゃんは19か20歳、予備校にかよいながら郵便局の仕分けのバイトかなんかやってたんですよね。その時の友達、たしか名前は信長くん。その彼からミックステープをある日、貰ってきたんですがその時、純ちゃんはAce of base とかのヨーロピアンテクノポップにのめり込んでいたせいもあってあまりヒップホップには興味がなく、僕にそのテープをくれたんですよね。それを一人で何気なく聞いてる時に、稲妻が突然来たんです⚡️。それがノーティーバイネーチャーのクレイジィエスト。もうハッキリと覚えております。
そこで正式にHiphopにお会いした私、ですが、まだ中一ですし、Googleなんてなかったし、実際問題ポケベルさえももってませんでした。情報を取る術がなかったので、もらったミックステープだけを聞きまくる生活をしていたんですが、ある日お父さんと横浜のお父さんの実家に行った帰りにタワーレコードに寄ってくれて、そこで、ポータブルのレコードプレーヤーとジェルーザダメイジャのカムクリーン、ドッグパウンドのドッグフードというアルバムをレコードで買ってくれました。
すごい嬉しかったですねー、その日帰ってcome clean かけた時の衝撃。今でも鮮明。ヤバかったです。
そっからはその当時古本屋が家の近くに何軒かあって、そこを巡って200円でRundmc やPublic enemy、BDP のいわゆる教科書的なヒップホップをCD で揃えていきつつ、レコードは最新のをジャケ買いして楽しんでおりました。その熱が始まったのが中学一年生、高校卒業し大学卒業まで一貫してHiphopと共に影響をフルにうけながらやってきました。
その当時は言葉が分からず、雰囲気、フロー、トラック重視で音楽を楽しんでいたんですが、知りたい欲に駆られ26歳の時に留学を決意し英語を勉強し、27の時にLAに9ヶ月くらい住んで、そっからNew York のHarlemに移りました。Harlemは何もかもが新鮮で毎日が本当に楽しかったです。ジャズ倶楽部をハシゴしたりアポロシアターで毎週木曜日だったと思うんですけどアマチュアナイトが開催されていたんでそれを観に行ったり、ただ単に映画を観に行くだけでも楽しかったです。
なぜなら、彼等の反応が、おもしろいから。
彼等は映画をじっと座って見ないんです。みんなのめり込んで喋りながら見てるんです。次こうなるなぁーとかおいお前そうじゃねぇだろみたいなツッコミまで、兎に角、二重の意味で映画は面白かったです。
そのあとはソウルフードかチャイニーズ食べてアパート帰って、その当時隣の部屋に住んでた、Jordan(彼はアンジーストーンのバックコーラスとかをやっていた)に一本巻いてもらいながら音楽を聴いて寝落ちする生活。
本当に謳歌してました。
今現在、私は39歳、オーストラリアに29の時に引越して来て、永住権を取り、美容院と日本食のテイクアウトのお店を経営しております。
しばらくはアメリカに帰りたい熱が冷めなかったんですが、永住権を取るのが難しいことやインフレが高いのに医療や学費が高かったこともあり、オーストラリアに留まる事を決意し今にいたります。
それでも音楽はずっと好きなんですが、Hiphopに対しては考え方が英語を理解する能力が長けてくるのと比例して変わっていきました。具体的には彼等が言ってることや行動にどんどん幻滅していったんですね。
Hiphopは当初、本当に誰が何と言おうとセンセーショナルでしたし刺激的でした。あんなにも音楽業界から芸能全体を巻き込みながら躍進を続けた90年代から2010年辺りまでの勢いは他の音楽では見たことがありません。
ですが、ふと我に帰りつい去年起きたBLM運動(ブラックライブスマター、結局は左翼のプロパガンダのために良いように使われていただけだと自分は思ってます)
をSNSを通して見た時に、Hiphopは過去のもので、とっくに死んでいたということを思い知らされました。
なぜならHiphopが栄えた一番の理由は、怒りや不満を壁や音楽に乗せて吐きだす斬新なスタイル,あくまでオリジナルにこだわる自己主張、現状を打破していく想い、ネガティブをポジティブに変える精神と力。
それが全米にNew York から波及し続けてやがて地球全体に広がって行ったその様を日本に居ながら肌で感じていた。
だが、いつしかそれが資本主義に呑まれていってしまった。資本主義に恩恵を受けて上手く乗っているつもりが資本主義に翻弄され潰されて行った。去年のような不安定なアメリカにこそHiphopが必要だった。だがHiphopは私が知る限り何もしなかったし出来なかった。それが今の答えだと思う。
追記。
上で触れたレイチャールズ達の事を今でも美化している部分があるのは単純に私が世代ではないというだけで、私がその当時に知識のある30代ならば、ドラッグと金と女に翻弄されながら”Unchain my heart “と言っている彼を資本主義に潰された惨めなアーティストの一人と見ているかもしれない。
私には小さい子供が2人居る。彼等がらどんな音楽に出会い、どんなHypeに踊らされ、どんな芸術を好むようになるか今から待ち遠しくて仕方がない。
ジャンケンで例えれば芸術は資本主義に高い確率で負ける。
だがこれに全てを賭けたいと思わせるどことなく宗教じみた力も同時に持ち合わせている。
この先、次の大きなムーブメントは必ず形を変えてやってくる。
私が生きているうちに音楽を含む芸術が資本主義を負かす瞬間をあと何回観れるか楽しみで仕方ない。