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私の可愛かった顔と曙のふてぶてしかった顔を祖母に見せてあげたかった

マザコン気味と妻に言われた私ですが、そんなことはなく、なんなら中学生くらいまで祖母と一緒の部屋で寝ていました。朝起こしてもらい、着替えを用意してもらい、かなり甘やかせてもらいました。どうだ!

店を切り盛りする母をその頃の祖母は家庭面でサポートしていました。朝夕のお仏壇、炊事・洗濯・掃除などなど。

何でもこなしていたのですが、スゴいのは、私が物心ついた頃には祖母はすでに、視力のほとんどを失っていたということです。にもかかわらず、自分のことはもとより、家事もこなし、私のグータラにも応え、時には2軒裏の知り合いの家まで1人で歩いて用事を済ませ帰って来るくらいのことは平気でやってのけたのでした。

その頃の中薗商店は汲み取り式のボットン便所だったので、祖母が落ちないか、子供心にヒヤヒヤしていた記憶があります。心配してたんですよ。

そんな祖母、現役時代は中薗商店のエースでした。仕入れた鮮魚を次から次におろして商品にしていました。目が見えなくなってからも昔取った杵柄で、台所で魚をさばくところを何度も見させてもらいました。ある時は、お歳暮の、子供時分の私より大きいくらいの新巻鮭二尾を一般家庭の台所で見事におろして、スーパーで売ってるみたいな切身にして、冷凍庫にびっしり収めました。身体が覚えているんですね。

私も何度か目をつぶって入浴したりトイレに行ったり、外をウロウロしてみましたが、必ずどこかにぶつかり、怖くてうまくいかないものでした。

ばぁちゃん、スゴい!

停電で炊飯ジャーが使えないときには、ふつうに鍋でご飯を炊いていました。キャンプか!ふつうにうまかった。

小さくて優しくて何でもできる祖母でしたが、やはり独りでの長距離移動は難しく、(大好きな)墓参りや町の眼医者に行く時は子供が一緒に連れていってあげました。そのご褒美に本屋で漫画を買ってもらうのです。

嫁姑問題も私の知る限り全くなく、母と祖母はすごく仲が良かった。二人の性格もあるでしょうが、お互い共通の難題?である私の父対策で無心のうちに共同戦線を張っていたのでしょうか。はは…

そういえば、母はなぜか極々たま~に、ビールに砂糖をいれて祖母にすすめていました。

いま思えば祖母は手帳の上では障がい者でしたが、私にとってはそれが当たり前の祖母で、だからといって盲目を意識しないわけでもなく、寺社仏閣に行けば「ばぁちゃんの目が見えるように」と毎回祈念することもあるあるで、でもやっぱり「障害」を感じさせなかった。子供の甘い考えでしょうか…

知り合いに祖母のことを紹介する際、いろいろな特徴やエピソードを話した後に、そうそうそれからって感じで「目が見えなかったの」を「虫眼鏡みたいなぶっといレンズのメガネ三本持ってます」と同程度に私は語っていました。

そんな祖母はラジオで相撲中継を聞くのが好きで、押し相撲の曙が嫌いでした。

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