血パンダはどうやって演劇を作っているか その7. 聞こえてくる音としてどうか
激情にはそれらしい込み入った事情を必要とします。その辺はギリシア悲劇やシェークスピアにお任せしておけば良かろうということ、とっくにゴドーを待っているだけでも十分だとわかった現代なので、血パンダはより微細で日常的な悲劇を志向します。そうなると、必然的に会話も日常会話に近くなっていくわけですが、日本語の日常会話というのは、聞こえてくる音としてはなんだか貧弱です。
『その1-2.やってみたいお芝居の仕組みは決まっているけれど、台本がない場合』で、あちらこちらで同時に喋る方法を試した時に、音としてしっかりはまった場合の心地よさを経験してしまいました。
観客は、全ての情報を自分なりに受け止めて記憶する以上、上演中の全時間、全ての言葉の意味が追える形にしている必要はありませんし、思考のぶつけ合いを会話にしてみようと思うと、人が音や言葉を発するタイミングというのは、案外同時でもかまわないのではないか、一見してのリアルさを損わずに誇張する、演劇的なトリックとして利用できないかと考えました。
動きながら読んでもらう作業が進み始めると、最初からそんな風にしようと用意していた箇所の他にも、ここは切れ目なく聞こえてきたり、言葉がごちゃっと塊になっても構わないという部分を発見するので、そこは躊躇なくセリフを食ってとか、ここからここまでは、ほぼひとつなぎで喋ってしまって欲しいとか、そんな指示を出すことがあります。
そんな場合、聞こえ方として言葉が断片的にになったとしても、音として膨らんで収束する感じの心地よさを重視します。やはり、逐語的に全てを聞こえる様にするのではなく、何を考えていそうかが見て取れることを優先するので、全ての言葉がクリアに聞こえる形で並べることはしません。
お客さんの中に、日本語を完全に理解はしておらず、具体的なことが全部わかったとは言い難いものの、大筋と、そこに流れている感情はめたという人が居たことがあります。
大筋が推測できて、一定の感情さえ掴めれば、あとは登場人物が考えていることの流れが舞台上の時間を動かします。思考は当然、セリフの言葉として聞こえてはくるのでしょうが、それが全てではありません。
台本に書かれているセリフに忠実に音が出ることは当然ですが、客席で見ていて、一言一句全てを記憶して帰宅する人も居ないわけで、見ているうちに言葉が錯綜して、音だけが大量に聞こえてくる瞬間も、観劇の体験として存在しても構わないだろうと考えています。
大阪で活動していた頃、梅田にカラビンカという劇場がありました。そこは真横をJR京都線の線路が通っていて、かなりの頻度で列車が通り過ぎていきましたが、演劇の記憶と列車の通過音の記憶が渾然とすることはありません。演劇は演劇として、環境音とは無関係に記憶に残っています。記憶とはそんなものだと思えば、ひとまず伝えるべきはメッセージや何か整理されたものではなく、もっと大雑把な体験自体ではないかと考えるものです。
通常は「何かを伝えたい」ということで、とりあえず全てをクリアにすることが求められているのだと理解はするものの、何が受け止められて長く記憶に残るのかからの逆算で何をするかを決めていくことで、極めて日常会話に近いセリフのテンポや聞こえ方のスタイルに至った様に思います。
日常的だからこそ、血パンダを見る体験は、日常の覗き見に近い体験であり、聞こえたり聞こえなかったりする中から特定の言葉を拾い上げて自分の中である程度補完していくことを観客に強要します。
『その1.台本』の項目でも書きましたが、一貫して《ある日、日常を過ごしていて、「演劇を見たのか、実際そんな目にあったのか、夢を見たのかが曖昧で気色悪い」そんな風にお客さんの心に入り込んでいけること》を目指しているわけで、心に残るものは、観劇体験の中で勝手に拾われたものという風に考えて全体を仕上げていくわけです。
どの程度できているのかは、先日公演したてのホヤホヤ、『残り香のありか』の記録映像でどうぞ。新型コロナの影響を鑑みて、今まではあまり興味の無かった「演劇の記録」についても、どうすりゃいいのさと模索を始めました。大きめの画面、大きめの音でどうぞ。
あ、まだ稽古は続きます。待て!次回。
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