血パンダはどうやって演劇を作っているか その3. 発話
発声と発話の違いって、要は「音を出す」からついに「言葉として口走ってみる」という段階に進んだということなんですが、これが結構困った感じで、最近も稽古の中で大きな課題になっていて、いろいろ模索している最中です。
書きながら考えながらまとめてみます。
先入観の解体
「どうしたの?」
と書いてあると、どう読んで声に出すでしょう。
セリフとして喋ろうとすると、文字に対しての何らかの表現を当て込みがちで、ついついその当て込んだものを起点にしていろいろ推測していく作業をしてしまいます。
どういう関係で、どういう位置関係で、どんな文脈でその言葉を口走るか。実は、そこには妥当さの程度ことあれ、正解はありません。
口に出してみるだけでもいろんな「どうしたの?」はある筈なんですが、実際に聞かれるのは数パターンでしょうか。そもそも「?」と疑問符が付いていると、とりあえず語尾の音が上がりがちです。
「どうしたの?」を妥当そうな型にはめ込んでいくことを優先していき、いちいち観客に集中力を求めない演技に行き着いても、まだ探究の余地があるのだということは理解します。
しかし、血パンダはあくまで小さな空間での上演にのみフォーカスしているので、あらゆる表現を記号として機能させ、遠くからでも舞台上で実行される行為から何かが見て取れる様にする必然性がありません。
台本には確かに、ある程度の文脈はありますが、実はそこに本当の正解は無いし、初見でどうだったかは積極的に忘れて、稽古の中でいろいろ試してみて、出せるニュアンスの許容範囲を決めていく作業をします。
そんな意味では、座って距離を固定したままの読み合わせというのは、ほぼやらなくなっています。
とにかく声に出してみて、同時に互いの位置関係や視線の向き、担当する役の入れ替えなども含めていろいろ模索していると、最終的には話している本人が自然に出せる個性に行き着き、その組み合わせをどうするかを決めていくことになります。
言葉を聞いて返すタイミング、声の質、話す速度、体から出せる音のボリューム、音が声に変わるまでの速度。こういったことを制御するのも訓練ですが、それはそれでまた別の話し。
とにかく血パンダは、「間近で見えてしまうものとして、どこまで生々しい余白を作っていくか」という模索を続けています。
登場人物の人物像を喋り方でそれらしく作り上げていくという作業は、上演できるかもしれない一連の瞬間が孕み得る可能性にとっては邪魔でしかありません。ひとりの役者が台本を黙読して「こうやりたい」と決めこんでいたとしても、稽古場はそれに磨きをかけるための場ではないわけです。
例えば、文字を見る限りではひたすら高慢な態度と読み取れたとして、実はそこから、ただの強がりが透けて見える可能性は無いでしょうか。エキセントリックな役柄の様に感じられても、エキセントリックさを排除して喋ってみることで、違う幅が見えてこないでしょうか。
こういったことは非常によくあることです、そして、一人芝居でもない限りは何人かの組み合わせも生じて、その関係性から、同じものが違う様に見えます。これは、ある意味当たり前のことです。
とにかく、一旦あらゆる「かくあるべし」「おそらくこう」というのを排除するわけです。
自分で台本を書いていながら、思いもよらないニュアンスが発生して、そういうことならこの部分の一連は、こういう流れの受け答えでも意味が通るのでは?という提案をすることもあります。
稽古はひとまず担当の役を固定せずに開始しますし、書いていた時に想定していなかったニュアンスが出れば、そちらの可能性も検証していく作業をしていきます。
そういえば、時々棒読みという指摘を受けることがありますが、実のところ私、何が棒なのかしっかりと理解できない体になっております。そういう皆さんにおかれては、テレビの前でリラックスしてアニメーションでもみておけば良いのではあるまいかと考えるものであります。感情表現かくあるべしを求めるならば、血パンダよりも確実です。
話しが逸れましたが、そうやって声に出していったとして、何がどんな風に立ち上がっていくのさということで、
次回は、立ってみるという話し。立ち方と距離についてかな?
あれ、先入観の話し、これで十分なんだろうか……。いや、なんにせよ、待て!次回。この件について、追記とか修正するとしても、後日!
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