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「しあわせのかおり」初日前口上

最近、理解とは何かについて考えるタネに、こまめに遭遇します。
父の従妹なのに、歳下という親類が居るんですが、最近二人で話しをする機会があって、そこでたまたま映画の話しになりました。
その歳下のおば曰く、友達と見に行っても、見て考えたことを話すよりも、あれはなんでああだったのか、どうしてこうなったのかを解説する役になることが多くて、映画を見て考えたことを話しすることが無い。それにしても、友達はこんなに途中でわからなくなっているのに、どうして映画を見ていられるのか、よくわからない。
概ね、そんな話しでした。
あるよね。と、そんな返事をして、こちらとしては、おばから映画を見て何を考えたのかを聞く方が当然、友達について推論を述べるよりは楽しいので、「で、何見たの?どうだったの?」となり、無事、おばが映画を見て何を考えたかをたっぷり聞いたものであります。

私としては、わからないけれど、なんだか凄いから、最後まで見ておこうとか、読んでおこうという経験は幾度もしていて、本なんかだと特に、わかるわからないという厳密なところはさておき、凄みだけに引っ張られてとにかく読み進めた本の方が、長い目で見るとかなり影響を受けていたということがあります。
ただ、確かに世の中がそんなものだらけでは、生きた心地がしないのではないかと思うのですが、世の中なんてのはそんなものだし、好意的に見るなら、映画というのがまだまだ十分に非日常を感じさせることに成功しているのだと、そういうことでしょうか。

演劇を作る様になって「何を見て、何を感じるか」に留まらず、「何を考えるか」まで手を伸ばそうと考えていましたが、そもそも、「何を考えるか」というのは、瞬間や瞬発力といった、作用に対する反作用めいた時間間隔の話しではなく、そこをスタートして、どんな風に展開や収斂があるのか。もっと時間性についても考えられたら、「理解」と簡単に白黒を明らかにして片付けるのではなく、解消していくこと、解消しないこと、区切りが付く、付かない。全てについて味わえる様にできるのではないかと、そんなことを、ぼんやりと考えました。
最近の話しなんで、そんな風に感じたからって、今回の台本をどうするとかもできないタイミングでしたが、自分が書くときに考えていたことの、返事のひとつが別の方向から来た様な、そんな気がしています。

ひとまず、しあわせの香りのお料理をお楽しみください。
そうこうしているうちに、お芝居は始まります。

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