格差について スポーツ社会学ゼミ
お久しぶりです。ご覧頂きありがとうございます。先輩からアカウントを引き継ぎ、初めての投稿でございます。今回は、格差についてです。温かい目で読んで頂けると、幸いです。
今日のゼミでは、格差について議論した。格差ってそもそも何?解決するべき問題なの?と、格差を根本的なところから考えた。
🌟格差とは、何か
格差とは、序列をつけることが可能なものの間の差と定義した。序列をつけることが可能であることは、比較する事象が、ある程度同類であることを前提としている。格差がもたらすものとは、主に機会の不平等である。
2人の子供の例を用いて、格差を具体的に考えてみよう。
(前提)
子ども①
・10歳
・裕福な家庭
・両親ともに四年制大学卒
・世田谷区在住
子ども②
・10歳
・貧困家庭
・両親ともに高卒
・地方在住(その地域に住む人々の大学進学率は、極めて低い)
この2人の間に存在する格差とは何か?
a) 経済格差
家庭の経済状況に差があることから、子ども①の方が、②より、与えられる機会や選択肢が多いと言える。例えば、①の方が、留学やスポーツチームへの所属、高価で美味しいご飯を食べることが、容易である。
b)教育格差
勉強に使うことが許される時間、教育にかけられるお金、周りの環境を考慮すると、子ども①の方が、より高い水準の教育が受けられると言える。また将来の進学可能性においても、格差がある。両親が非大学卒の子どもが、自身が大学に進学する率は、両親が大学卒の子どもに比べて低い。2015年の調査によれば、「20代(1986~95年生まれ)男性であれば父大卒だと80%、非大卒だと35%が大卒となった。」[i]
c) 情報格差
自身の進学や進路を考える際の情報の量に差がある。例えば、大学とはどのようなことが学べるのか、大学生とはどんな感じかといったような情報の量や質にも差がある。そもそも大学に進学するという選択肢を知っているかに差があるかもしれない。
🌟次に、意欲を前提とした格差問題と、知らぬ間に失われる機会の問題について考える。
<意欲を前提とした格差問題>
引き続き、上記の例を用いて、格差を考える。
この10歳の子ども①②が、両方とも、将来は大学に進学したい、今から勉学に励みたいと考えているとする。2人とも勉学に意欲的である。
すると、ここでの格差は、どのような姿で現れるだろう。
子ども①は、高額の塾に通うことができ、優秀な教師に出会う機会が与えられる。テキストが手に入れられる。図書館に行く十分な時間もある。もし、塾に通ったり、テキストを買ったりすることを選択しない場合でも、お金や時間に囚われずに、選択できるということが重要なポイントだ。
一方で、子ども②は、勉強をしたくてもできない場合がある。地方で、塾があまりない。そもそも、金銭的な余裕がなく、塾に通うことや、本やテキストを買うことができない。家の手伝いや兄弟の世話をしなければならない場合もあるかもしれない。
子ども②は、自身の現状や満たされない勉強意欲に苦しむことがあるだろう。意欲が前提の場合には、この格差は解決しなければならない問題として浮かび上がる。
<知らぬ間に失われる機会の問題>
次に、子ども②に勉強意欲がない場合について考える。ここでの「勉強意欲がない」とは、決して怠惰であるという意味ではない。主に、環境要因、両親の条件、情報格差によって、勉強をする・進学するという意欲を、そもそも得なかった場合だ。子ども②が①より、勉強に対する意欲を持つ可能性が低いことは、容易に想定できる。意欲を持つ機会や、勉強するという選択肢への意識が失われているのである。意欲の格差とも言えるだろう。
❓ここまでの、答えが出なかった疑問❓
この知らぬ間に失われる機会の問題は、解決するべき問題なのだろうか???
ある1人のゼミ生は、「格差によって失われた選択肢や機会に、より多く気づくことができるのは、与えられなかった者よりも、むしろ、与えられた者であると言える。知らぬ間に失われる機会の問題を、格差における強者が解決しようとするのは、強者のエゴであるかもしれない。」と言った。
そして、私は、知らぬ間に失われる機会の問題は、解決する必要がないと思い、そう発言した。なぜなら、失われた機会に気づいていないのだから、誰も苦しんではいないと考えたからだ。しかし、今は、前の自分の考えに懐疑的だ。日本の子どもの約6人に1人が貧困の中で暮らしているという現実を前に、本当にそう言えるのか。貧困や格差は、断ち切ることの難しい連鎖の中で繰り返される。親の貧困は、子どもの貧困を生む。その貧困は、意欲を前提とした格差問題だけでなく、知らぬ間に失われる機会の問題によっても、再生産されている。だとしたら、知らぬ間に失われる機会の問題を解決しなければ、貧困も、意欲を前提とした格差問題もなくならないのではないかと今は思う。
❓ここまでの、答えが出なかった疑問❓
格差問題の解決を目指す取り組みが、強者のエゴであるのは、どのような場合だろう?今日のアフガニスタンの女性の権利の問題に他国が介入することは?
〜おわりに〜
私たちが格差について語ることには、葛藤が伴った。なぜなら、きっと私たちは(少なくとも私は)境遇が、子ども①寄りだからだ。格差の苦しみと無縁とまでは言わないが、貧困や格差の本当の苦しみを知らない私が、格差を語る資格はあるのかと申し訳なくなる。しかし、不平等はやむを得ないと考え、格差について口を噤むのは、格差の現実に見ないふりすることになる。格差について考える時には、この葛藤が伴うことが、ディスカッションを通してわかった。
本日の投稿において、わかりやすさを求めすぎて、ディスカッションで出なかった具体例を入れまくり、原型を留めてない箇所が多々あります。ディスカッションの内容を基に書きましたが、実話を基にしたフィクションです、といった感じです。スポーツ科学部らしく、スポーツと格差の関係についても議論しました。そのパートについても、後日noteに投稿します。拙い文章で大変恐縮ですが、ご精読ありがとうございました。
[i] 松岡亮二(2019)『教育格差』ちくま新書p36
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?