「知らない」という勇気を持とう
こんばんは!3連休の初日は郷里の諏訪に帰り、ゆっくり過ごしています。きょうは「知っている」ことの限界についてお伝えします。
メディアで見かける光景
テレビなどのマスメディア、あるいはブログ等で弁護士やエコノミストの専門家が専門外の分野について言及していることがあります。
基本的に当たり障りのない内容ですが、専門家が言っているだけに説得力があるように見えます。しかし、どの領域であっても自信を持って言い切れる課題はあるのでしょうか?
「上から目線」で稼ぐ人たち
一部のエコノミストや作家に言えますが、上から目線で断言して注目を集め「炎上商法」でページビューを稼ぐ手法が散見されます。
彼らは他者を攻撃して省みることもなく、その姿はまるで「謝ったら死ぬ病」にかかっているかのようです。
そうした言論を目にするたびにうんざりします。ですが、なぜ彼らは得てして的外れな詭弁を弄してまで自説を展開するのでしょうか。
思うに社会は「白か黒か」「ゼロか100か」で割り切れるものではなく、膨大なグレーゾーンが広がる中である意味妥協して規範が形成され、法律が運用されるのがほとんどです。
そうした複雑性を理解しようとせず、特定の個人や団体に責任を帰着させる意見は説得力があるように見えます。ですが、所詮はプロパガンダに過ぎません。
孔子の説いた「知らない」と「知る」
中国の春秋時代の思想家である孔子は、弟子の子路にこのように説いています。
これは「自分の無知を自覚する」ことだと僕は解釈しています。2500年以上前の古代の聖賢も、知ったかぶりを諌めているのです。
知の海に身を捧げるということ
人間が生涯に得られる知識はごく僅かです。知識の総量を増やすより情報を解釈してバイアスを排し、妥当な結論を導き出す訓練を積む方がよほど大事です。
僕がライティングや統計学を少しずつ学んで実践している意味はそこにあります。自分自身の限界を認めた上で、それでも湧き出る意欲に身を委ねています。
この記事を読んでいる皆さんにも、曲論やプロパガンダに惑わされることなく、知らないことは「知らない」という勇気を持っていただければ幸いです。