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「開放的な経営」と「倫理と利益の両立」

渋沢が活躍した戦前は、三菱や三井といった財閥が急速に成長した時期でした。
たとえば同世代の実業家では、三菱を作った岩崎弥太郎との対比が有名です。

 彼ら財閥系は、当時ほとんど会社の株式を公開せず、
実際に株を売り出すのは、三菱でもその多くが1930年代に入ってからと遅めでした。

また、実際の経営は「専門経営者」とよばれる経営者たちに委ねられていくことが多かったものの、
財閥系の人物は経営のトップに位置し、
株式についても一族で所有するなど、非常に閉鎖的な経営であったといえます。

           

 一方、渋沢が関わった企業は、多くが株式会社の形態を取り、
少額でも広く民間から出資を募って、大きな会社を作っていきました。そういった意味で「開放的な経営」だったと言えます。

           

 現代の企業を見ると、広くいろいろな機関投資家が入っています。
さらにグローバル化によって、企業はもちろん、人やお金、モノ、情報が国境を越えて広がりを見せています。

           

──当時、株式会社の形態をとるのは、かなり先進的だったのでしょうか。

杉山 日本において株式会社制度が発達していくのは、明治期に入ってからです。
渋沢は初期段階からその普及に大きな役割を果たしたといえます。

財閥ものちに傘下会社の多くを株式会社化していきますが、
本社と子会社との間の株式所有にもとづく強い結びつきを前提とする閉鎖的なものでした。
この組織のあり方をコンツェルンといいます。

           

 このように、財閥については閉鎖的だったものの、一方で非財閥が形成する株式会社も発達していました。
ただ、とにかく財閥が急成長している時代であり、彼らが大きな事業経営体を作って、経済の中心にいたのは事実です。

           

 しかし渋沢は、いくつもの企業を成功させながらも、財閥の路線とは一線を画し、非財閥系の株式会社に関わり続けた稀有な存在です。
もしも渋沢がいなければ、非財閥の企業の成長はここまで大きくなかったかもしれません。

特にインフラ関連は、非財閥系の企業が多く、そこに貢献しているのは間違いないと言えます。

           

 実際、彼は実業家として早い段階で成功します。第一国立銀行や大阪紡績会社(現・東洋紡)といった大企業の立ち上げがその例です。
しかし、あくまでこれらの会社を一族で固めず、自分のカラーを濃くしませんでした。
当時の財閥とは対照的に、一貫して開放的な経営を続けたのです。

           

──生涯で500もの企業に関われたのは、必ずしも自分が経営の主導権をすべて握ろうとしなかったからでしょうか。

杉山 そうですね。彼が経営の指揮をとるのではなく、信頼を置ける人に経営を任せるケースは多数ありました。

たとえば、浅野セメント(現・太平洋セメント)の経営で知られる浅野総一郎もその一人です。
こうしたビジネスパートナーたちが、渋沢の多忙な活動を支えていたといえるでしょう。

 このように、渋沢は経営面では自分が信頼する有能な人を見極めて巧みに配置していきました。
自分のカラーを強くせず、人的ネットワークを作って広げていったのも特徴です。
そして、それだけの人的ネットワークを作れたのも、渋沢の凄さだと思います。

           

──1社の成功に安泰せず、次々に別の企業に関わっていった理由は何でしょうか。

杉山 やはり、純粋な公益の追求者であり、「日本全体を良くしたい」と切実に願っていたからであると考えられます。
そしてそれこそが、今の経営者に求められる姿勢だと思います。

           

──どういうことでしょうか。

杉山 高度経済成長期や安定成長期、そしてバブル経済の頃は、日本の経済自体が伸びているので、自社の利益だけ考えていても成果が見込めたといえます。
ただ、現在のように経済成長が頭打ちとなっている状況の中では、自社の利益だけを見ているのではなく、

むしろ、他の企業と協力して、日本の経済そのものを良くしていかないといけません。そういった視点が必要になっています。

 その中で、渋沢の開放的な経営、公益を追求した姿勢が参考になるはずです。

           

──彼は、まだまだ経済成長が見込めそうな戦前に、公益を追求していたんですものね。

杉山 はい。過去の記録を見ても、地方にもかなり足を運んで、さまざまな企業の設立に携わっています。

彼が支援した各地の鉄道会社なども、まさにその典型といえるでしょう。
当時はまだ未知の産業であった鉄道会社の立ち上げに関わり、
その他にも港湾、ガス、電気といったインフラに関連する企業にも多く関わりました。
こうした渋沢の姿勢は、公益の追求そのものではないでしょうか。

           

 また、彼は生涯で約600の社会事業にも携わりました。
有名なものでは、社会福祉事業の先駆となった養育院(現・東京都健康長寿医療センター)の初代院長を務めたことが挙げられます。
また、日本赤十字社の設立などにも関わりました。
社会事業は、実業界を退いた後も、亡くなる前まで尽力したようです。

           

一方で彼は非常に“合理的”で、利益を重視する側面を持っていました。

──どういったことなのか、詳しく教えてください。

杉山 彼の功績として大きいものに、大阪紡績会社の成功があります。
ここでも渋沢は相談役という地位にあり、
実際の経営は山辺丈夫という有能な技術者などに任せていましたが、
長きにわたって渋沢は経営の枢要に関わり続けたといわれています。
そして、同社の経営においては、合理的、革新的な判断が多く見られました。

           

 たとえば、最初はイギリスのミュール機という紡績用の機械を導入するのですが、
その後にアメリカのリング機というものに魅力を感じると、そちらの導入を試み、試験生産ののちにリング機の導入を増やしていきました。
1892年に大阪紡績では大きな火災が起きてしまいますが、その復旧を通じてほぼリング機に切り替えられていきます。

           

 当時、アメリカでは熟練労働者の少なさからその賃金が高かったため、労賃の安い女性や子どもが扱える機械の開発が進んでいたんです。
日本でも同じように熟練労働者の不在という問題がありました。工場の機械を途中で一新するのは大きな決断です。
しかしながら、合理的な技術選択に基づき、それが可能となりました。

           

 また、原料の綿花についても、安い輸入品を使い始めました。これも当時は画期的なことでした。
そういった合理的かつ革新的な判断が奏功し、大阪紡績会社は成功します。
そして、それを見た数多くの紡績会社が後に続き、その後、産業革命におけるリーディングセクターとなるのです。

           

──あくまで、実業家としての冷静な視点を持っていたんですね。

杉山 はい。さらに重要なのは、公益を追求する「倫理」と、
合理的な判断の根底にある「利益」の両立をテーマにしていたことです。それが、近年注目される2つめの理由につながります。
彼はこれを「論語と算盤(そろばん)」と表現しました。

           

──どういった考え方なのでしょうか。

杉山 平易に言えば、公益や社会貢献を考えながら、一方で利益を上げていくということです。

そして、利益を上げたらそれを自分のものにするのではなく、
国や日本経済に還元していくということです。

           

 彼は小さい頃に論語を学びました。その理念を生かして公益を追求するのですが、
同時に“そろばん勘定”を大切にしていました。
「論語」と「そろばん勘定」は、とても相容れないものに思えるのですが、彼の活動はそれが両立されています。

           

 実はこの考え方こそ、今、多くの企業が取り入れ始めているものではないでしょうか。
日本でもCSR(企業の社会的責任)が重視されはじめ、
企業が慈善活動や社会事業を行うケースがとても多くなりました。

           

 そして近年は、新たにCSV(共通価値の創造)という考えが企業に広まっています。
これは、社会的な課題解決と企業利益の両立を目指す考え方です。
まさにそれは、渋沢が提唱した「論語と算盤」の理念と通じ合うところがあるといえるでしょう。

──CSVは比較的新しい言葉ですが、その理念を、すでに戦前の渋沢が実践していたんですね。

杉山 そう言ってよいと思います。だからこそ、彼は社会基盤に関連する企業の立ち上げや経営に多く関わり、
利益を上げつつも社会へと還元することに成功していったといえます。

           

 加えて面白いのは、数多くの社会貢献をしてきた彼が、
社会事業、慈善活動にも“そろばん勘定が必要”だと考えていたことです。

「慈善活動も組織的・経済的に行われなくてはならない」と明言していますし、
思いつきではなく、持続性のあるものを計画的にやらなければいけないという方針でした。

           

 ですから、彼自身もちろん寄付活動は行っていたのですが、それよりも彼のネットワークを使って、
社会事業の組織を設立することに力を注いでいました。
それらもすぐに終わるものではなく、継続性を重視したといえます。

実際、養育院をはじめ、今も存続している組織が数多くあります。
https://kkeeii.link/douga/syea-10/#3

           

           

           

           


ロス回収業。

1、食品ロス、廃棄される食糧をもらう。
・ペット(家に来る野良猫)のえさにしたいので
食べられるのに捨てちゃってるのがあったら分けてもらえませんか?
・「自己責任誓約書+サイン」の紙を用意して渡す。

2、欲しい人にあげる。安く売る。
・でかい「自己責任誓約書」の紙を用意して サインさせて渡す。

3、ホームレスやもらいに来た人に 一緒に回ってやり方を教えて 任せる。

↑↑ロス回収業者。へ

           

           

           

           

 

原爆はなぜ落とされたか? カネのためなんだ。

 国家の詐術を、アメリカによる原爆投下にみる。

原爆はなぜ落とされたか。それも二つも。
公式にはアメりカ兵の被害を少なくするためとされている。しかし、それはウソだ。

当時の日本に連合艦隊はなく、兵器を作る工場もない。
米軍幹部は大統領に原爆投下の必要はないと進言もしていた。

投下の主な理由は二つあるという。

一つは、原爆開発の膨大な予算を出した議会に対し、原爆の効果を示したかったから。
つまりカネのためなんだ。

2個の原爆は種類が異なっていた。
二つとも落として科学的に確かめようというのが第2の理由。

人間のつくる科学には残虐性が含まれているんだ。

このウソをアメリカ政府はいつまでつき続けるのか、と問う。
アメリカという国家がなくなるまででしょう。

いちどきに何十万もの人を殺す原爆ができて、国家はより有害なものになった、という。
日本はそのことにいまだに気づかず、
世界一の金持国である米国の懐に抱かれてしまい、安心しちゃっている。すさまじいことですよ。

↑↑戦争、農薬、環境破壊は 経済第一主義が元凶ではないか?

           

 

           

           

 

           

「人類家族化計画」の「ともだち作戦」

           

” 友達になりませんか呼びかけ ” からの人類「ともだち作戦」。
1、” 友達になりませんか呼びかけ ”

       友達になりませんか? コロナがおさまったらお邪魔させてもらえませんか?
                  コロナがおさまったら遊びに行きませんか?
                  コロナがおさまったら一杯やりませんか?
                  コロナがおさまったらバーベキューやりませんか?

 →家にお邪魔する →居候する →「人類家族化計画」と「ともだち作戦」の一連の流れを指導する 

           

 →乞食&路上ライブ を浸透させる。
 →乞食は自営業という認識を一般化する

「乞食」というカテゴリーの中に
・クラウドファンディング
・路上ライブ
・ホームレス 
↑↑・ロス回収業者 などの項目が入る。

 →ケンカやナンパ →” 家ついてっていいですか? ” →家にお邪魔する →居候する →一連の流れを指導する 

           

2、・離婚、勘当、家出
・火事、地震、台風 などで住みかを失ったら 助けてもらう、利用させてもらう。

           

3、・ヤングケアラー、介護、老々介護、出産、育児、
・いじめられっ子、引きこもり、孤立、
・乞食、ホームレス、生活困窮者、母子家庭、 などのおせっかい、手伝わせてもらう。

           

「人類家族化計画」の「ともだち作戦」で人類の生き方を変えて地球を救います。
活動を続けるために力を貸してください。

↓「ouvb043251@gmail.com」と入力 次へ

↓「¥ 」 続行
https://www.paypal.com/myaccount/transfer/homepage

↑↑これも乞食を助けるやり方として検証中です。(力を貸してください)

           

1、あなたも「ともだち作戦」をやってください。
2、「世界に広げようともだちの輪」
3、経済ではなく 協力、助け合いで回していく人類になります。


↑↑戦争、農薬、環境破壊は 経済第一主義が元凶ではないかhttps://www.uuooy.xyz/kitui/hyouhyou-3/


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ボーダー
ボーダーです。 プロダクトローンチの手法にハマりまくってました。 ・「ネット=支援の場」という意識を浸透させる「クラウドファンディングアフィリエイトページ」やってます。 ・ストリートパフォーマンスで人とやりあう活力をつける教室やってます。