✅欠点、障害を持って生き抜くのは誰かの励みになっている。ルー・ゲーリッグ。
✅欠点、障害を持って生き抜くのは誰かの励みになっている。
だから、むしろ欠点、障害をさらけ出さないと欠点、障害を持って生まれた甲斐がない。
✅1938年シーズンの半ばから、ゲーリッグの成績は段々と下降線をたどり始める。
✅「何かがおかしい」
これについて本人は当時「シーズン半ばで疲れてしまった。なぜかはわからないが、何か頑張れる気がしない」と述べている。
また、エレノア夫人には30歳の誕生日以来脚に力が入らなくなっていると伝えている。
夫人はゲーリッグが脳腫瘍にかかったのかもしれないと心配していた。
対戦相手であるデトロイト・タイガースの投手エルドン・オーカーは後年、「ルーが病気になったと聞いたので、私は彼がいつからおかしくなったのか考えた。具体的な日時を言えと言われたら、
1938年7月1日頃(この年のシーズン半ば)から、明らかに彼のプレイはおかしくなっていた」と回想している。
✅ゲーリッグはシーズン前の1938年1月に『ローハイド』という西部劇映画で主演をしている。
映画の中でゲーリッグはビリヤードの球を投げつけたりするなど、一見問題ないようにアクションをこなしていたが、
椅子から立ち上がるのに手を付いたり、歩くときに少しふらついたりするなどしており、
下肢筋力低下の軽い症状があらわれていた。
✅ゲーリッグは次第に弱々しくなっていき、ロッカールームやフィールド上でさえ突然倒れてしまうこともあった。
ほとんどの記者やファンは連続試合出場による疲れだと信じていた。
35歳になってはいたが、周りのチームメイトはまだまだ限界ではないと思っていた。
少なくともゲーリッグの1938年の成績は打率.295、29本塁打、114打点とリーグ平均を遥かに上回っており、
ルースの引退間際の成績さえ大きくしのいでいた。
✅ただ、親友でもあったビル・ディッキーはゲーリッグの異変に気づいており、
ある日ケチャップのボトルを持ち上げられず、代わりにディッキーが取り上げてやったエピソードが残っている。
1938年の暮れになると、道路のわずかな段差でも頻繁につまずくようになり、
得意だったアイススケートでも頻繁に転ぶようになった。
✅シーズン終了後、ゲーリッグはニューヨークの専門家に話を聞きに行ったところ、
胆嚢に問題があるという専門家の診断を受けた。
エレノア夫人はこの見立てに疑いを隠さなかったものの、ゲーリッグはその診断を信じて治療を任せた。
健康を取り戻してヤンキースの勝利に貢献する事を自身の大きな目標とし、それに全力を注ごうとしたのである。
ヤンキースに対する忠誠心は強く、球団が年俸の3000ドルダウンを提示してもゲーリッグは素直にそれを受け付けている。
✅1939年のスプリングトレーニングが開幕しても、ゲーリッグの気力が回復することはなく、
例年通りに激しいトレーニングを行って心を奮い立たせようとしても、状況は改善されなかった。
当時、注目の若手選手だったジョー・ディマジオによれば動作全てがスローになり、
打撃練習中に以前であればはるか彼方まで飛ばしていたような球ばかりだったにも関わらず、19回も続けて空振りしたという。
同年のゲーリッグの成績は自己最低の34打席4安打1打点、打率.143であった。
さらには走塁面でもキャリアを通じて積極的な走者であったゲーリッグだったが、
同年には筋肉のコントロールを失いつつあり走ることさえ困難となっていた。
✅記録の終わり。
ジョー・マッカーシー監督は球団首脳部からのゲーリッグをベンチに下げろとの圧力には従わなかったが、
ゲーリッグ自身は次第に一塁守備を普通にこなすことも難しくなった。
2130試合目の連続出場となった1939年4月30日のワシントン・セネターズ戦では無安打に終わった。
この試合で普通のゴロを捕り、一塁ベースに入った投手ジョニー・マーフィーにトスしてアウトにしたが、
これを見た二塁手のジョー・ゴードン、捕手のビル・ディッキーが口々にゲーリッグにナイスプレーと言って元気づけた。
ごく当たり前のプレーなのにと感じたゲーリッグは引退の潮時とばかり、
2日後の5月2日に自ら監督のもとに出向き「俺は下がるよ、ジョー」と伝えた。
マッカーシーはこれを承諾し、代わりにエルスワース・ダールグレンを一塁手として起用。
ゲーリッグには、もし出たくなったらいつでも出すと伝えた。
✅責任審判にその日のラインアップ表を渡したのもゲーリッグ自身であったが、
この日で彼の14年間に及ぶ大記録は終わり、試合前にヤンキー・スタジアムのアナウンサーは
「皆さん、これは2130試合ぶりにルー・ゲーリッグが試合に出ない日です」と述べた。
デトロイトの観客はベンチにいるゲーリッグにスタンディングオベーションで大記録の終焉(しゅうえん)を称え、ゲーリッグ本人は涙を浮かべた。
✅筋萎縮性側索硬化症の診断。
✅連続出場が途切れた後もゲーリッグはチームに帯同するものの、状態はさらに悪化。
6月中旬にはエレノア夫人も再度脳腫瘍の可能性を疑っていた。
エレノア夫人は友人からミネソタ州ロチェスターのメイヨー・クリニックにいるチャールズ・メイヨー医師への紹介を受け相談をした。
メイヨー自身もゲーリッグの突然の変貌に関心を持っていたようで、すぐに本人を連れて来るように伝えた。
エレノアはここで自分にしかゲーリッグの病状を伝えないようにとの条件をつけた。
メイヨーはこれに難色を示し、「家の長にしか伝えられない」と述べると、エレノアは「自分が家計簿を握っているので自分が唯一の家長だ」と反論した。
エレノアは直ちに当時ヤンキースが滞在していたシカゴからロチェスターへゲーリッグを連れて行き、メイヨーの診断を1939年6月13日に受ける。
最初にゲーリッグを見たハベイン医師は、一目見た瞬間に歩き方や姿勢が明らかにおかしいのを見抜いていた。
ゲーリッグの症状は数か月前に自身の母をむしばんでいた筋萎縮性側索硬化症の症状に酷似しており、
顔の表情機能の低下や奇妙な歩き方は母親と全く同じように見受けられた。
筋萎縮性側索硬化症とは、飲み込むことや話すことが困難になるなど、急激な運動機能の低下の一方、
精神機能には一切の低下がなく、急速に不自由になっていく身体を
曇りのない意識のもとで認識させられるという難病である。
患者は発症後、半数ほどが3年から5年で呼吸筋麻痺により死亡する。
✅その後6日間ゲーリッグはメイヨー・クリニックで過ごし、ゲーリッグの36歳の誕生日となった6月19日にエレノア夫人とゲーリッグ本人に病名が告知された。
ただしゲーリッグはエレノア夫人に向けた手紙で以下のように記しており、詳しい症状はエレノア夫人にのみ通達されていたという説もある。
「悪いニュースがある。筋萎縮性側索硬化症だという事だ。治療法はない……
珍しい病気らしいし、感染したのかと思うけどでもチームメイトに伝染したとの話は聞かない。……
今のまま暮らせる可能性は半々らしく、10年から15年後には松葉杖の生活かもしれない。野球を続ける事は論外だ…… 」
ゲーリッグはチームに復帰するために到着したワシントンの駅でボーイスカウトの集団に出迎えられた。
そこで子供たちに対し手を振り返したが、隣にいた同行者の記者に向け
「彼らは俺に幸運を祈っているよ、俺は死にそうなのに」と語ったという。
6月21日にヤンキースはゲーリッグの引退を発表。しかしキャプテンとしてチームに帯同すると述べた。
✅「私はこの世で最も幸せな男です」
✅1939年7月4日のセネターズとのダブルヘッダーで、ヤンキースはルー・ゲーリッグ感謝デーを制定し、メジャー他チームを含む多数の人々がゲーリッグを祝福しに訪れた。
ゲーリッグが初めて勝った1927年のワールドシリーズ制覇の記念旗が掲げられ、当時のナインもゲーリッグのために式典に訪れた。
ニューヨーク市長フィオーレロ・ラガーディアも訪れ、当時現役を引退していたベーブ・ルースもスピーカーとして招かれた。
ゲーリッグの成績上昇期はちょうどルースの下降期と重なったため、
ルースはゲーリッグの連続出場記録を皮肉って、たまには休んだり釣りに行った方がいいんじゃないかと記者に述べる事もあった。
しかしこの日のスピーチでは、皮肉ではなく、心から一緒に釣りに行きたいと述べ、ライバルを称えた。
2人がこのように親密さを示したのは、ゲーリッグの妻がルースと関係を持っていると一部メディアで報じられて以来初めてだった。
また、マッカーシー監督はスピーチをしたら泣き出してしまいそうだと述べ、なかなかこの依頼を受けようとはしなかった。
結果的にマッカーシー監督はゲーリッグについて
「野球人、スポーツマン、そして一般市民としての素晴らしい例であり、野球というスポーツが出会った最良の人材である」と述べ、
その後ゲーリッグに「ルー、君が『チームに迷惑をかけるので辞めます』と言いにきたあの日の悲しいデトロイトでの夜が、俺の人生の中で最も悲しい日のうちの一つだった。他に何が言えるかい?」と泣き顔で振り返った。
ヤンキースはゲーリッグの背番号「4」をMLB史上初の永久欠番に指定。
背番号制が導入されたのがゲーリッグのキャリア開始後の1929年であったため、
彼の他にヤンキースで背番号4を付けた選手はいない。
この日ゲーリッグはさまざまなVIPやスタジアムのグラウンドキーパー、用務員などからも贈り物をもらい、球団は銀のトロフィーをプレゼントした。
式典の後、この日の担当者マーサーはゲーリッグが泣き崩れているのを見て、
「今日はゲーリッグにスピーチをしてくれとは言わないことにします。そうしない方が良いと思います」と述べ、マイクを片付けた。
ゲーリッグもマッカーシーとフィールドを去っていったが、観客からゲーリッグコールが湧き上がり、
本人もフィールドに戻りスピーチを始めた。ゲーリッグは歴史に残る名スピーチを行った。
✅「ファンの皆様、ここ2週間に私が経験した不運についてのニュースをご存知でしょう。
しかし、今日、私は、自分をこの世で最も幸せな男だと思っています。
私は選手として球場へ17年間通い続けてきましたが、いつもファンの皆様からご親切と激励をいただきました 。……
こちらにいらっしゃる偉大な方々をご覧下さい。
例え一日でもこのような方々とともに同じ場所にいられることは最高の栄誉ではないでしょうか? 私は間違いなく幸せ者です。
ジェイコブ・ルパートと知り合えて名誉だと思わずにいられない人がいるでしょうか?
最上の野球帝国を築き上げたエド・バローと知り合えたことを名誉だと思えない人は?
6年間過ごしてきた素晴らしい小さな仲間でもあるミラー・ハギンスと知り合えたことは?
その後の9年間を、卓越した指導者であり、人の心理を読むことに長けた、
知る限りもっとも素晴らしい監督のジョー・マッカーシーと知り合えたことを名誉と思わない人は?
そんな人はいないでしょう。私は間違いなく幸せ者なのです 。……
ニューヨーク・ジャイアンツという、常に闘争心を駆り立ててくれたチームの選手から贈り物をいただき、
グラウンド整備の担当者やホットドッグ売りの少年たちからも記念のトロフィーを貰えるなどということも素晴らしいという以外にありません。
妻との口喧嘩の際に自分の娘よりも私に味方してくれた素敵な義母、
さらに両親が懸命に働いてくれたおかげで私が教育を受けられ、そして立派に育つことが出来ました。
私は神の祝福を受けたのです。
比類のない強さを持ち、考えていた以上に勇気のある女性を妻に出来たことほど嬉しいことはありません 。……
つまりは、私を不運だとおっしゃる方もいるかもしれませんが、
数え切れないほど多くの人々からの愛情を受けている私の人生は本当に幸せなものなのです 。……ありがとう。」
✅観客は立ち上がり、約2分間スタンディングオベーションが続いた。
ゲーリッグはマイクから離れて大きくよろけ、頬から流れる涙をハンカチでふき取った。
球場内で「あなたを心から愛してる(英語版)」が演奏され、聴衆が「ルー、私たちはあなたを愛してます」と歌詞を替えて歌う間、ルースはゲーリッグにかけ寄り、彼を優しく抱きしめた。
翌日の『ニューヨーク・タイムズ』は「今まで野球場で見た光景の中で最も感動した場面の一つ」と報道し、
ハードボイルドで知られた非情な記者たちさえも「懸命に涙をこらえていた」と伝えた。
ダブルヘッダーの第2試合が終了してビル・ディッキーと一緒にヤンキー・スタジアムを後にしたゲーリッグは彼の親友にはっきりとした口調で
「ビル、今日のことはずっと先まで覚えておくつもりだ」と語った。
✅引退後。
✅ゲーリッグの引退後、ヤンキースの首脳部はゲーリッグが経済的に困らないよう全ての手を尽くすと述べ、
フロント入りすることになっていた。
当時の規則によると1939年の年俸は全て支払われることになっており、
また試合も病の進行と共に歩けなくなるまで観戦し続けた。
アメリカ野球殿堂への投票権を持つ全米野球記者協会(BBWAA)もゲーリッグの病の状況を考慮し、
特例としてゲーリッグに対する特別投票が行われ、殿堂入りが決定した。
36歳という当時史上最年少での殿堂入りにも関わらず、病により式典に参加することはできなかった。
ゲーリッグの病状を診断したメイヨー・クリニックもデスクワークならまだ出来ると想定していたものの、
首脳部はフロント入りの約束をほごにして、ゲーリッグに違う仕事を探した方が良いと示唆。
これに対しゲーリッグは激怒した。
✅1939年10月、ラガーディアに請われて、10年任期の仮釈放委員会委員に就任した。
ラガーディアはゲーリッグの仕事ぶりに大変満足していたと伝えられている。
ゲーリッグは死の1か月前まで仮釈放委員会のオフィスに出勤して仕事をしていたが、
次第に歩けなくなり車椅子の使用も拒否したことから完全に寝たきりの生活になった。
この頃、発見されたばかりのビタミンEが奇跡を願って投与されたが、何ら効果をあげることはなかった。
✅1941年5月下旬、ヤンキースの外野手、ジョージ・セルカークが病床のゲーリッグを見舞った時には
最盛期93キロあった体重がわずか41キロしかなかったという。
それでもゲーリッグは「良くなったらトレーニングを始めるよ」と弱々しく語った。
✅1941年6月2日に没。37歳。38歳の誕生日の17日前だった。ラガーディア市長は市内全域に半旗を掲げることを命令した。
エレノア夫人はゲーリッグの死後に一度も再婚せず、残りの人生は筋萎縮性側索硬化症の研究を支援することに捧げた。
エレノアは1984年3月6日、80歳の誕生日に、夫の死から43年後に逝去した。
晩年に出版した回顧録の中では「他の男性に20年間どんなに尽くしていただいたとしても、
あの方と過ごした2分間に得ることのできた喜びや悲しみと引き替える気にはなれません」と述べている。
2010年にゲーリッグは筋萎縮性側索硬化症ではなくCTEMという症状の似た別の病気だったという説が提唱されたが、
⇒CTEMは特殊な状態の組み合わせでしか発症しない極めてまれな病気であるためその可能性は低いと否定されている。
✅いじめもセクハラもぶっ飛ばす。
だから引きこもるなんてもったいない。
⇒憎しみが人を動かす。
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