FA07_FA10の心構え-後半_

07-ファシリテーター 10の心構え(後編)

中野民生著『ワークショップ』(岩波新書 147頁)内でも引用している西田真哉氏の「ファシリテーターであるために望ましい条件」として10の項目(トップ画像参照)

ただ少し抽象度が高かったり、「なんでその項目、その言葉づかい?」というものもある中で、実践を重ねていくことで「もしかして、こうだから?」という自身の言い換えも含めて記述する。(後編)

⑥プロセスへの介入を理解し、必要に応じて実行できる。
 ➡︎(自覚が大事) 

ファシリテーターの介入のタイミングも「評価的な言動を使う是非」とほぼ同じ構造である。よく「介入するタイミングがわかりません」とファシリテーションを勉強している方から相談を受けるのだが、僕個人の考えで述べるのであれば、「悩んだ時は、いけ(介入せよ)」である。もちろん「待つ」ことの重要性も理解はしているが、自身が介入するタイミングを自分の軸に持てていない人は、悩んでいる時点で、ダメージをリカバーできる機会を見逃していることの方が多い。介入しすぎる人にこのアドバイスは決してしないが、多くの人には「決断する勇気」の経験を積ませた方がいい。そして「悩んだ時は、いけ(介入せよ)」の言葉に必ず添えるのは「判断の分岐点を自覚していれば良い」である。ファシリテーターの現場は常に変動する。しかし判断一つ一つがどうだったか、という他者からのフィードバックをもらえることはほとんどない(参加者も当事者であるからそこまでメタ認知はできないし、スタッフ同伴だとしてもメインのファシリテーターよりも習熟度は至ってない場合がほとんどなので、ほしいフィードバックに至らない場合が多い)。となると、あとは自分自身で振り返るしかないのだが、その時、判断の分岐点を自覚していれば「今回の状況は〜だったため、介入したが自主性の芽を摘み取るような結果になってしまった」と反省できれば「同じような状況になった場合、もう少し見守ってみよう」「次は声かけの仕方を変えてみよう」といった具体性を帯びた改善行動を想定できるからだ。そういう積み重ねによって、自身の判断軸がブレないようになってくる。ただ、一番ベストなのは、自分と習熟度が同じ、ないしは上であろう、という人と一緒に現場を手がけること。動的判断が求められるそのときに相談できる相手がいると、学びの数が圧倒的に多くなる。また互いにフィードバックし合うのもメタ認知が適正に進むため、成長率はぐっと高くなる。

⑦相互理解のための自己開示を率先できる、開放性がある。
 ➡︎(安心のために) 

ことファシリテーターとして「自分のことを喋る」のは、伝えたい、というよりも、相手に「この人、ここまで言ってくれるんだ。(それなら私も)」という気持ちを引き出したい時や、失敗や弱みを伝えることで立場の関係性(ファシリテーターは必然的に力を持っていたり、上にいるように見られがちであるから)をフラットにすることが狙いの時が多いのではないだろうか。参加者の安心感を紡ぐために、ファシリテーターは自己開示と開放性をさらりと行う。私の場合は、キャラクターを活かして、うっかりちゃっかりな雰囲気の進行で、思わず参加者がたしなめる、ツッコムといったところまで引き出すことを心構えている(これは相互理解というより、ファシリテーターが完璧じゃない分、みんなで創り上げる、自分たちの違和感を素直に表明する、というベクトルのためでもあったりするのだが)

⑧親密性、楽天性がある。
 ➡︎(リラックスしてもらおう)

⑦と同意義であるかもしれないが、なるべくおおらかにつとめることは意識している。安心感の一つであるかもしれないが、やはりワークショップは知らず知らず緊張していたり、肩の力が入っていることが多い。ワークショップデザインの工夫で緊張感はある程度軽減できるが、ファシリテーターの人柄だからできることも多い。あと、これはもう正直に吐露するのだが、「(あだ名)と呼んでください」みたいなことは、実は得意ではない。正直、恥ずかしい。それができる人はそういう進行をしたらいいだろうが、得意でなかったり、違和感のあることまで無理にすることはないと思う。自分が自然とできる範囲の親密性でいいと考えている。私であれば、高齢の男性、女性については「お父さん、お母さん」と呼んだりすることは自然と出てしまうし、始まる前にちょっと世間話は心がけている。あと、楽天性は親密性とは違うように捉えていて、「これどっちがいいですか?」「こういう解釈でもいいですか?」といったリアクションがあった場合「どっちでもいいっすよ〜」「じゃあ、やり方変えましょうか?」というように返すことで相手が拍子抜ける、肩の力がと抜ける、といったことを心がけるようにしている。

⑨自己の間違いや知らないことを認めることに素直である。
 ➡︎(おりられるか否か)

ファシリテーターが参加者に対して、どれだけフラットに、対等に、と思っていても、関係性上、上の立場にいるのは仕方ない。だからこそ心がけておきたいのは「降りられるか否か」という自問だろう。なんなら、相手よりも降りられるか、といったところまで考えていたい。ワークショップの進行中、自身の誤りを認めることはとても難しい。進行中に誤りに気づくことも、謝罪することも、それから進行内容を変えるのも気持ちを整えながら頭を切り替え、判断を即時下していくことはとても難しい。しかし、時間は有限であり、機会も限られており、その中で参加者の貴重な時間をいただいている以上、大切にしなければいけないのは自分のプライドよりも参加者の気持ちである。「自己の間違いや知らないことを認められるか否か」は、普段から自分自身に疑いを持っておくことが求められる。

⑩参加者を信頼し、尊重する。
 ➡︎(“待つ”ことを信じる)

そして最後、「参加者を信頼し、尊重する」に関して言えば、この”信頼”という言葉がなぜあるか、だ。参加者を尊重する、ということだけであれば、自主性や相手の主訴を摘み取らず、言いたいこと、伝えたいことを受け止める、といった内容になるのだが、「信頼し」という言葉があることによって、私は「待つ」という態度がつけ加わると思う。沈黙や停滞、手が止まる、表情が曇る、それぞれあるし、本人が自主的にやろうとしていることか否かで判断は大きく変わるが、相手が言いたそうにしている、やりたそうにしている、それがうまく出てこない、動けない、その場合、なるべく「待つ」。介入するか否かの動的判断ポイントでは、その前に「10秒数える」ということを大切にしている(ちなみに沈黙や停滞の中で10秒待つのは体感的に異様に長い)。もし介入するのであれば、「どうしたい?」と聞くこともあるし、選択肢をいくつか提案して相手の判断を促すこともあるし、一緒に少しやってやり方が見えてきたら離れる、みたいなことなど様々だ。しかし、この「待つ」は本当に難しい。自分がリカバーできるギリギリの範囲を見極めることが求められるがファシリテーターの性格も加わると思うし、いつも「これで正しいのだろうか」と自問自答することになる。なので、やはり私は信頼できるファシリテーターとタッグを組んで、自身の動的判断をもとに相談しあいながら、どこまで「待てる」かも含めて進行をしていくことで、自分の判断を鍛えているのだと思う。

まとめ

前編・後編と分けてファシリテーターの10の心構えを書いてきたが、改めて振り返ると、全て書きぶりが「参加者が安心・安全に学びあったり創り出したりするために」という考え方になっていることが自分でもわかり意外であった。そして書きながら、幾度となく修羅場のような荒れるワークショップでの立ち振る舞いを想起していた。「あの時、あんなにも荒れたのに、なんで最終的には、一番文句の口火を切った人が、清々しい顔で”今日、おもろかったな!”と言って終われたのだろう」「不平不満が噴出し、ほとんどの人の手が止まる中、あの時、ああ動いたから場は変わったよな」。ワークショップは優れたワークショップデザイン、ファシリテーションが発揮されるから満足度の高いものになるわけではない。その場にいる参加者の納得度や、在りようを受け止めること、力を発揮してもらうことで全く違う場所に行けることを大前提としておきたい。

ワークショップの特徴に加えて、ファシリテーターの心構えを述べてきたが、いよいよワークショップデザインを手がけるにあたっての要素などプログラムデザインに関することに触れていきたい。

いいなと思ったら応援しよう!