相手を倒さなけばならないなら「相手を見てはならない」。
本日は、光岡英稔先生の韓氏意拳指導に参加。
今回も貴重なご指導に感謝しております🙇🏻♂️
普段なら光岡先生の指導を受けた後は、何か書くにしても少し熟成させてからにするのだが、今回は重大な気づきを得たので忘れないうちに書いておく。
「人は、人と向き合うと、陰面を見てしまう」ということだ。
「陰陽と身体観」について理解するには光岡先生の指導を受けるのが一番と思うが、ざっくり短絡的に答えだけ書けば、人間を含む脊椎動物は「背面=陽面」「腹面=陰面」となっている。
およそすべての中国武術を行うためには、「背面=陽面」に目を向け続けなくてはならない。
ところが「二足で立ち上がってしまった動物」である人間は、「前面(腹面)=陽面」と捉えてしまっている。
この捉え方だと陰陽が食い違い、身体が使えなくなる。
例えば「站椿は固めて耐えて鍛える稽古である」という誤解は、この陰陽の捉え方の間違いから生じる。
だから、少なくとも中国武術を行う際には、常に陽面を見なければならない。
ここまでは、まあ理解はしていた。
ただ問題は「それがいついかなるときでもできるか」ということだ。
今回、恥ずかしい話だが、韓氏意拳初級の基本である「蹲起」が、光岡先生に前から押さえられるとまったくできなかった。
自分の稽古不足に恥いるばかりだが、終盤、私の抱式を光岡先生が手把手で持った瞬間「あっ」と気づいた。
「今、陰面を観ている」と。
私は人間として生きてきた。(当たり前だが)
目の前にいる人物も人間だ。(当たり前だが)
人が人と向き合うのに「前面」で見ない!なんて、そんな生き方してないのだ。
私はここ数ヶ月「とある影練」をやっている。
「人と向き合わないと、どうしてもわからないことがある」と感じたからだ。
なぜ私がこれを始めたのか、ようやく肚落ちした。
一人稽古で陽面を捉えられるようになっても、人と向き合ったときにたちまち陰面を観てしまうのでは、実戦で使えないからだ。
これは大難問だ。
「社会的な人間」ならば、相手もまた「社会的な人間」であるとして接するのが、およそ社会というものが構築されてこの方、規範中の規範として刷り込まれているからだ。
目の前にいる相手をもし倒さなければならないのなら、相手を社会的な人間として見るのをやめなければならない。
相手を「前面」で捉えるのをやめ、自分の「背面=陽面」から目を離してはならない。
相手を倒さなけばならないのなら、相手を見てはならない。
少なくとも普段のような、社会的存在として他の人間を見るような目で見てはならない。
これは「狂化」とは別の話ではあるが、もしかしたら関係があるかもしれない。
「人と向き合ったときでも、陽面を捉え続けることができるか」
これこそが私の課題だ。
「社会の担い手」たる仕事をやっている私としては大変な難題だが、課題が見えた以上はやるしかない。
いつも深遠なご指導と困難な課題を提供してくださる光岡英稔先生に、再度感謝を申し上げます🙇🏻♂️