馬歩冲拳の「抜けていたピース」
武術歴20年超にして、入門初日の稽古に戻る。
すなわち、馬歩冲拳。
これが実戦でそのまま使えるわけがない。
ではこれは何を稽古しているのか。
漠然と「下半身を鍛えてるのかな」程度しか理解がないまま、あまりやらなくなった。
今にしてようやく理解が進んだ。
抜けていたピースは鼠蹊部の理解。
伝統武術の「伝統」には2つの側面がある。
(1)武術体系そのものが伝統的
(2)教授法が伝統的
(1)は当然、なければ伝統武術にならない。
しかし(2)は、現代における教学において問題を生ずる。
現代人は、近代化以前の人々の身体観が理解できなくなっているからだ。
例えば「テクノロジーを前提としている現代人の時間感覚」は、近代以前の人には理解不能だろう。数十km離れた職場に毎日通勤し、コンピュータやネットを前提とした働き方で「1日にできる仕事の量」を見積もる。
近代以前の人には、そんな圧縮された時間は理解できないだろう。
その反対側に「テクノロジーを前提としない近代以前の人の身体感覚」がある。
あらゆることを身体を使ってやっていた近代以前の人々にとって常識である身体観が、現代人には理解できない。Excelが近代以前の人に理解できないであろうことと対になっている。
例えば以前にも触れたが、江戸時代の火消しが持つ「纏」の重さは約15kgある。
真っ先に火災現場に駆けつけなければならないのになんでこんな重い物を?と考えるのは現代人の感性。江戸時代の火消しにとってこの程度、真っ先に駆けつけるためのなんらの障害にならない。
江戸幕府公用の継飛脚は、まさに「駅伝」方式で、江戸から京都の約500km、3日で文書を届けたとのこと。
箱根駅伝の走破距離は1日約100km。箱根駅伝のペースでは継飛脚に勝てない。
ちなみに継飛脚の走り方は、右手右脚・左手左脚を同時に出す「ナンバ走り」だったとのこと。
話が逸れたが、伝統武術には近代以前の人々の「わざわざ触れるまでもない身体的常識」が多々含まれており、そこに気づかないままだと、伝統武術が何をめざしているのかわからないままになる恐れがある。
「伝統武術の体系」を「現代人」に「伝統的教授法」で教えることの問題がここにある。
韓氏意拳が画期的なのは、王薌齋が創始した意拳を「現代人が稽古することを前提として」教学体系が組まれていること。これは創始者・韓競辰先生が「現代人」であるという僥倖によるものだろう。
だから、韓氏意拳を学ぶと他の伝統武術の理解が深まる。抜けていたピースをはめることができる。
この機会に、これまで学んだ伝統武術を総ざらいするのもいいかもしれない。
しかしコロナ禍とはいうものの、そんなに暇になったわけでもないことが悲しい現代人の稽古者です^^;