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「所有感」が強すぎると、うまくいかなくなる。

昨日は光岡英稔先生の兵法武学研究会に参加させていただきました。
今回も大変学びの深い稽古でした。ありがとうございました😊

昨日の兵法武学研究会での学び、私の最近の問題意識、それに加えて米大統領選、菅義偉首相と臨時国会などが関連しながら私の頭でグルグル回っており、少し書きながら整理したい。

昨日の兵法武学研究会も課題と宿題が満載であり、またも四苦八苦の連続だったが、その中でも「所有感」「距離感」の話が、昨今の私の問題意識とオーバーラップしていて強く印象に残っている。

技がうまくいかない理由のひとつとして「技に対する所有感が強すぎる」というものがある、というお話。
技を練習して身につければ、「この技は自分のものだ!」という感情が生まれる。
しかし、技のほとんどは誰か先人が考え練り上げたものである。
100%オリジナル技というのは考えにくいが、もしそういうものがあったとしても、それを実現する自分の身体は、自分オリジナルではない。
そういうことを忘れて、技に対する「所有感」が強くなりすぎると技はうまくいかなくなる、技との適切な「距離感」が重要だ、と光岡先生はお話しされていた。
また、以前の兵法武学研究会では「あまり『やる気持ち』がないほうがうまくいく」という表現もされていた。

そして今朝、このような記事を見かけ、「所有感」について改めて考えさせられた。

この記事で語られているアメリカ社会の教育の不平等とそれに伴う社会の分断は、「所有感」の問題とオーバーラップする。
自分はこれほど『勤勉』に働いてきたのだから、「Well deserved」な地位を得られて当然だ、勤勉でない者には価値がない、という価値観の流れには、人間社会の基本的な問題が内包されている。

すべては『借り物』にすぎない。
技も、地位も、財産も、身体も、そして命も、得られたのは「偶々のご縁」による借り物である。
借り物だからこそ大事に使わせていただき、時が来たらお返しできるよう整えておき、困っている人がいたら自分からも気前よく貸して差し上げる、というのが本来あるべき姿だろう。

もちろん、自分の意志による行動が無意味であるということではない。
意志によって「偶々のご縁」を具体的成果として結実させている。
無数のご縁の中から、機と傾向を捉えて具現化させるのが意志の力。
しかし「偶々のご縁」なくしては、ほぼ何もできないと思ったほうがいい。
自分の意志で生まれることができる人間がいるだろうか?
そして、そのような意志を持つに至ったのも「偶々のご縁」の結果だとは言えないだろうか?

勤勉であることは大事なことだ。
しかし、「何かを得るために勤勉である」という態度は、既に不純である。
それを得た後、あなたはどうするつもりなのか?

政治・社会の話として言うなら、どのような人でも尊重されなければならない。
どんな人でも、教育を受ける権利は平等でなければならない。
そのような基本的人権を維持しなければ、社会の分断は深刻化し、やがて想像を絶する悲劇を生む…ということは、既に歴史が証明している通りである。

生き方の問題として語るなら、「すべては借り物」と認識する必要がある。
過去の栄光も未来の夢も、枕元で語られる千夜一夜物語である。
「今」のご縁に感謝し、また良き縁を結べるよう己を正し、少しでも自分にできることをご縁にお返ししていく。
そのような生き方を続け、いずれ自分の命もお返ししたいものである。

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