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少しでも具体的になったら、間違いである。

王向斎の2つの有名な言葉。

「一用力便是錯(少しでも力を使ったら間違いである)」

「一具体便是錯(少しでも具体的になったら間違いである)」

前者もなかなか難しいが、それでも後者よりはまだ捉えやすい。

「具体的になったら間違い」とはどういうことか?

最近、ようやくこの言葉が少し捉えられるようになった。

捉え難いものを捉えるときは、「正解」を追いかけるより、まず「間違い」を認識して、「これは違う」「これも違う」と、「行き止まり」を潰していくほうがやりやすい。

間違いである「具体的なものの例」を列挙してみる。

・相手が右手で突いてきたら、左手で捉えて、身を翻して手首を返すと「小手返し」がかかります。

・筋トレでパワーを上げましょう。

・この技の用法はこういうもので、こういうときに使います。

・くらえ、我が最終奥義!

・隙あり!

・むっ、敵に右手を取られた! ならばこの右手を逆に返して…

・ハート様に打撃は効かない。

・フェイントで誘い、本命を入れる。

…まあつまり、具体的に考えたものはすべて間違いになるので、間違いの例は無限に生み出せる^^;

「そんなバカな。じゃあ、何もするなということなのか?」

その通り。

何もしないのである。

正しい形状維持を行い、自分の身体への集注を続ける。
それ以外は何もしないのである。

そうすると、なぜか「事が起こる」のである。

本当に、何もしていない。

何もしていないのに事が起こるから、「またまたそんなぁ、わざとかかっちゃって…」と思ってしまうくらいなのだ。

自分がやってることなのか、相手がやってることなのか、わからなくなるくらいなのである。

何しろ自分では何もしていないから、これと同じことが次もできる気はまったくしない。

しかし、「何もしなければ事が起こる」という「経験」によって、自分の身体に対する「信頼」が得られる。

次に何かあったときもまた、形状維持と集注、そしてこの「信頼」によって、眼前のものと向き合うのだ。

最後に重要になってくるのは、内三合「心・意・気」のうちの「心」である。

いかなる「心」がよいか?

これは、「おもしろい!」と思う心だ。

人間は「おもしろい!」と思う方向に向かうものである。
だから「おもしろい!」と思う心を羅針盤にすればよいのだ。

「結果」を求めてはならない。

「結果」は「具体的なもの」の最たるものである。

どんな結果になろうが「おもしろい!」。

だから大丈夫なのだ。

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