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「interesting」と向き合え
人間は「interesting」の方向に動く。
それが正解だ。
残念ながら日本語には「interesting」を的確に訳す言葉がない。
「おもしろい」「興味深い」と一般に訳すが、十分ではない。
「interesting」は「外部的誘引力」を表している。自分がそれに引かれている状態は「interested」となる。
何かが「interesting」であるので、自分がそちらに誘引される。
この「外部性」が本質なのである。
「外部」とは何であるか。
自分の身体も「外部」である。
丁寧に紐解いていけば、自分がこれまでしがみついていたものが次々に「外部」として切り離されていく。
最後には「意念(イメージ)」が残る。
「意念(イメージ)で行ってはならない」
これは、韓氏意拳の重要な教えだ。
イメージは、必ず現実とズレる。
万物は流転する。
自分の身体も例外ではない。
脳の細胞や筋肉は、遅くとも1年ですべて入れ替わる。骨も遅くとも3年ですべて入れ替わる。
3年経てば、人間は完全に入れ替わっているのである。
それでは、意念(イメージ)とはいったいなんなのか。
過去の残響か。転じて未来への願望か。
なぜ人間はイメージできるのか。
これは人間存在最大の謎だ。
しかしいずれにせよ、それは現実と遊離している。
現実と向き合うならば、まずはすべてのイメージを切り離すところから開始する。
さすれば「自分というものは、ない」というところに行き着く。
ここがスタート地点となる。
「interesting」は、必ずしも「快」ではない。
不快なもの。苦しいもの。できれば避けて通りたいもの。
にもかかわらず、目を背けることができないもの。
それは「interesting」であり、向き合うべきものだ。
「interesting」から逃げてはならない。
引かれているにもかかわらずそこから目を背けるのは、「自然」に反する行為だ。
まず、向き合わなくてはならない。
向き合った上で、慎重に動く。
それに乗るのか、乗り越えるのか、今は手に負えぬとして打ち回すのか。
どう向き合うかは自由だ。
いずれにせよ、「interesting」を無視することはしてはならない。
既に誘引されている以上、無視すれば、それは自分と現実を引き離す引力となる。
無視を続ければ、いずれ感性が死ぬ。
「interesting」を感じることができなくなる。
感じることができなくても、引力は自分と現実を引き裂き続ける。
「interesting」はあらゆるタイムスパンを持つ。
ほんの刹那のinterestingもあれば、長年にわたるinterestingもある。
interestingに耳を傾けよ。
そして向き合え。
それが、「memento mori」と対になるものである。