母のような娘に。
高校生になったばかりの私は、
まだまだ子どもだった。
だって、
怖い映画は最後まで観られない。
でも父と母は平気で観る。
暗くて人気のない場所も怖い。
変質者が出るかかの心配よりも、
お化けが出るんじゃないかって、
空想しては恐怖していた。
だけど大人はみんな、平然と歩いていく。
思春期まっさかりで、
大人になる準備は
始まっていたのだろうが、
でもやっぱり、
私にとって大人は
まだまだ遠い存在だった。
*
おばあちゃんが入院した。
意識不明の重体。
何十時間も手術室に入り、
出てきたときには、
もう目も合わなかった。
くも膜下出血。
心臓は動いているけど、
それだけ。
「一命はとりとめました」
「意識は、戻るかもしれない。
でも、戻らないことも覚悟してください」
そう言われたのは、
手術後の1回のみ。
「意識が戻るかも」
という言葉は、
それ以降一度も聞けなかった。
だけど、
「話しかけてあげてください」
とは、何度も言われた。
おばあちゃんが救急車で
運ばれた病院は、
脳外科でとても有名な総合病院。
そこで何度も手術経験のある
体格のいい男の先生が、
言うのである。
母はそう聞いて以降、
毎日、お見舞いに行った。
毎日、おばあちゃんに話しかけていた。
*
病院は決して自宅から近くはなかった。
電車を乗り継ぎ、
駅からは歩いて20分程度。
都会で暮らす私たちにとって、
これは決して、楽なアクセスではない。
それでも母は、
近所に住む義父の食事を用意し、
仕事をこなし、
私たち家族の夕食の用意をして、
夜、病院へ見舞いに行くのだ。
毎日。
もちろん、
私も、妹も、父親も、
おばあちゃんが心配だった。
でも、
私とおばあちゃんの思い出なんて、
たかだか15年だし、
なんなら最初の数年間は覚えてもいない。
でも母は、
おばあちゃんと
45年も付き合っているのだ。
私たちの心配は、
母のそれとは比べ物にならないと思い、
だから、
洗濯、掃除、片付け、
なるべくぜんぶやって、
母の負担を減らしてあげることしか
できなかった。
それでもやっぱり、
「ウールのセーターの洗い方がわからない」
「お風呂のカビってどう取るの」
なんてことで、
母を頼ることは多かったけれど。
*
ある休みの日、
私も母についてお見舞いに行った。
手を消毒して、
白衣を着て、マスクをして、入室。
顔をすべて見せることもできない。
「おばあちゃん、来たよ」
「今日はこの子ら連れてきたわ」
「あら、目やにえらい出てるやないの」
母が話しかける。
すでに私も、
何度かお見舞いには来ていて、
見慣れた光景だった。
でもその日なぜか、
母の優しい声を聞きながら
私はふと、思ったのだ。
母は本当は、
おばあちゃんのことを
「お母さん」
と呼びたいんじゃないか。
と。
そうだ。
きっと、
私が生まれるまでは、
「お母さん」と呼んでいたはずだ。
あれ、
せっかく
話しかけにきているのに、
自分のお母さんなのに、
私がいるせいで、
「おばあちゃん」
と呼ばせてしまっているのか。
そう気付いたのだ。
「そんなん、あかん。
30年間、
呼び慣れた名前で呼んでほしい。
おばあちゃんだって、
自分はシワシワの
おばあちゃんじゃなくて、
「お母さんなんだ」と
思い出したら、
もしかすると、
目を覚ますかもしれへん」
なんて期待も抱きつつ、
それからなるべく、
母と時間をずらして
お見舞いに
行くようになった。
その頃だったと思う。
母も人なのだ
と気付いたのは。
私の母は、
なんでもできる大人ではなくて、
私と同じ、
一人の娘なのだ。
怖い映画が平気で観れたって、
ウールのセーターの洗い方を知っていたって、
私と何も立場が変わらないのだ。
自分がもし、
今、
母が意識不明の重体になったら、
どんな気持ちだろうかと想像すると、
泣いた。
想像なのに、
今現実にあるおばあちゃんへの悲しみよりも、
もう少し強い悲しみがこみ上げてきた。
母は今、こんな気持ちなのか。
それでも泣かずに、
毎日お見舞いに来ているのか。
なんて強い人なんだろうと思った。
私と変わらない「娘」が、
私ならきっと泣いてしまうばかりなのに、
毎日気丈に頑張っている。
素直に、
すごいと思った。
大人としてではなく、
同じ娘の立場として。
おばあちゃんの意識が戻らないのは、
本当に悲しいけれど、
おばあちゃんは、
母のような娘がいて、
幸せ者だな。と思った。
そして、
私も母のような娘になる
と決めたのだ。
私の母になにかあったとき、
私も、母と同じように、
気丈に振る舞い、
毎日話しかけに行くような、
そんな娘になりたい。
母のような娘になること。
母を、おばあちゃんのような
幸せ者にしてあげること。
それが私の、母には内緒の、夢。
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