プロ野球の新外国人の対戦選手を遡って行くと、何人で初代外国人選手・ジミー堀尾まで行き着くのか?(前編)
1ヶ月ほど前にふとしたきっかけから
「大谷翔平の対戦選手を遡って行くと、最短何人で野球創生期の選手まで行き着くのか?」
ということを調べてみたところ、
大谷翔平VS.山﨑武司(2013年6月1日 札幌ドーム)
山﨑武司VS.新浦壽夫(1992年9月9日 ナゴヤ球場)
新浦壽夫VS.中利夫(1971年6月1日 後楽園球場)
中利夫VS.中尾碩志(1956年5月16日 中日球場)
中尾碩志VS.苅田久徳(1939年5月21日 阪神甲子園球場)
VS.堀尾文人(1939年10月15日 後楽園球場)
こんな感じで野球創成期までたどり着きました。
これが思った以上に楽しくて興味深かったため、今回はその第二弾です。
※以下は一回目の記事。
今回のテーマ
今回はテーマはプロ野球の新外国人の対戦成績を遡っていくと、何人で初代外国人選手・ジミー堀尾まで行き着くのか?です。
ジミー堀尾(堀尾文人)という方は、ハワイ生まれアメリカ国籍の日系人であり、NPBにおける外国人選手第一号とされている方です。
1934年に発足した東京野球倶楽部(のちの読売ジャイアンツ)の創立メンバーの一人であり、沢村栄治らとともに全日本チームとしてベーブ・ルース、ルー・ゲーリック、ジミー・フォックスなどのMLB選抜と戦った一人でもあります。
これまでNPBにはたくさんの外国人選手が入団しましたが、どれだけの対戦を挟めばジミー堀尾まで行きつくのか、歴史とともに見ていこうと思います。
ちょうど僕は日本プロ野球助っ人外国人大図鑑(2012年発行)という本を持っているので、NPBの記録と前回も使用した日本プロ野球記録様と合わせて漏れのないように調べていきます。
最初に・・・「外国人選手の定義」について
調べようとして気が付いたのですが、外国人選手の定義って非常に曖昧なんですよね。
例えば陽岱鋼や大豊泰昭は完全に台湾生まれ台湾育ちの台湾人なんですけど、野球協約の規定によって日本人扱いになっているだけです。
スタルヒンや与那嶺要は入団時に外国人枠の規定がなかったため、日本国籍を持っていなくても入団後も外国人扱いにはなりませんでした。
さらに白仁天に関しては日本統治時代の朝鮮出身という理由で、明らかな韓国人であっても外国人扱いにされることはありませんでした。
ヤクルトの松元ユウイチのように入団後に帰化したことで外国人登録を外れた選手もいます。
タフィ・ローズやラミレスのようにFA権取得に伴い外国人枠を外れた選手もいます。
えー、ここら辺は非常にややこしいため
ここでは全員外国人として扱います。
これらはあくまでNPBの都合で日本人扱いにしているだけで、彼らのアイデンティティを考えた時に、(帰化した選手は別にして)自分を日本人だと思っている選手はいないでしょう。
あくまで生まれ育った国を優先して考えさせていただきます。
一般的な感覚として、王貞治や張本勲のように日本生まれ日本育ちで国籍のみ海外、およびそれに準ずる選手は外国人選手としては扱いません。
ただ、どうしても変な気分にはなるので陽岱鋼や大豊泰昭やのような最初から一切外国人枠に入らなかった選手はできるだけ通らないように遡っていきたいと思います。
2024年は始まったばかりなので、2023年の新外国人で最も若いセデーニョからスタート
すみません前振りが長くなりました。
それでは早速調べていこうと思います。
2024年は開幕して1か月で新外国人はまだあまり公式戦で対戦していないので、2023年の新外国人から遡っていこうと思います。
いまさら気が付きましたが、開幕直後じゃなくて閉幕直後にやるべきことでしたね。
まぁ言ってても仕方ないので進めていきましょう。
新外国人なら誰でもいいといえばいいのですが、ここはせっかくならば最も若い選手から始めていきましょう。そちらの方が歴史を感じそうなので。
…
…
調べてみると、育成選手を除いた新外国人の中で最も若いのは野手はオリックスのレアンドロ・セデーニョ選手、投手はヤクルトのエルビン・ロドリゲス投手でどちらも1998年生まれ。
(育成選手ならもっと若い選手はいますが、大前提として一軍の試合での対戦を対象にしているのでここは排除して考えます)
誕生日の関係でセデーニョの方が若干若いのでこちらで考えていきましょう。
育成出身とはいえ187打席も立っているのでどこかでベテラン外国人選手とも対戦しているでしょう。
今回はセデーニョから遡っていきましょう。
ちなみに遡るうえでのルールですが、
前回同様二軍戦やオープン戦は古い情報は調べきれないと思いますので、一軍公式戦のみを対象といたします。
日本シリーズやCSおよびプレーオフは試合数が少なく調べることも可能かと思いますので対象に含めます。
オープン戦はともかく二軍戦は本当なら入れたいのですが、ご了承ください。
セデーニョから「ベンツの愛称で知られる投手」へ
本名はレアンドロ・セデーニョ。
ベネズエラ出身。
2023年に育成選手としてオリックスに入団。5月19日に支配下登録されました。
マイナー時代は163mという歴代最長飛距離ホームランを記録した長距離砲で、2024年の成績は打率.244 9本 34打点 出塁率.278 長打率.438 OPS.716
出塁率が低く長打率の高い典型的な長距離砲といった感じの成績です。
7月には大爆発しましたが8月以降はやや成績を落とすなど好不調の波が激しい選手でもありました。
個人的にはスチュワートジュニアから打ったカブレラみたいなホームランが好きです。
それでは前回も使用したヌルデータというサイトでセデーニョと対戦した外国人選手を抽出していきましょう。
上記のサイトを見ると
スチュワート・ジュニア、ボー・タカハシ、ティノコ、カスティーヨ、メルセデス、ペルドモ、ポンセ、ロドリゲス、マーベル
の9人と対戦しているようです。
調べていると、ここでちょっとややこしいことになりました。
このうち最も入団の早い選手は2017年に巨人に育成選手として入団したC.C.メルセデスなのですが支配下登録は2018年7月。
日ハムのブライアン・ロドリゲスは2018年入団なのですが、最初から支配下登録されています(っていうかなぜか開幕投手です)。
うーん、ちょっと迷いますが
ここは入団の早いメルセデスにいたします。
条件がほぼ一緒なのでここら辺は僕の感覚で選ばせて下さい。
去年の話なので対戦した日程もすぐ出てきました。
2023年7月11日です。
この試合はセデーニョがメルセデスから満塁ホームランを放ち、その4点がそのまま決勝点となってオリックスが勝利した試合です。
ついついセデーニョのホームランを2試合分も貼ってしまいました。
それではメルセデスからさらに遡っていきましょう。
ベンツの愛称で知られる投手から「シーズン60本塁打の伝説級助っ人へ」
メルセデス選手の本名はクリストファー・クリソストモ・メルセデス。
ドミニカ出身。
2017年に育成選手として読売ジャイアンツに入団、2018年に支配下に昇格するとローテーションに定着。
2023年よりロッテに移籍。
2024年開幕前までに33勝36敗、防御率3.18
カット気味に食い込む速球とスライダーが武器。スタミナ面に課題があり勝ち星は伸びていませんが、安定してローテーションを守っているイメージです。
2021年の東京オリンピックでも日本代表を抑え込むなど、ドミニカの銅メダル獲得に大きく貢献しました。
知らなかったんですけど巨人入団前はカープアカデミーにいたんですね。
愛称はメルセデスなのでそのままベンツ。
ベンツは当然ドイツ車なんですが、メルセデスはスペイン語の名前なんですよね。これにも一応理由があるんですが、全然関係ないので知りたければ各々で調べてください。
大好物はバナナ丼というとんでもない組み合わせの食べ物。
日本人の感覚からすると普通にバナナ食えばいいじゃんと思ってしまいますが、中南米の方々にとってはバナナはおかずだったりするので、これが普通なのでしょう。
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さて、そんなドミニカンのメルセデスから遡っていきましょう。
2018年なので、まだ全然データは残っております。
投手なら2010年入団のメッセンジャーとサファテとウルフがいるのですが、外国人野手でもっとも入団が早いのは2011年入団のバレンティンです。
メルセデスの初登板初先発がヤクルト戦なのでおそらく(というか確実に)対戦してると思います。調べていきましょう。
対戦してました。
1回裏にしてました。
メルセデスがバレンティンをセカンドゴロと三振に抑えています。
というわけでバレンティンにつながりました。
このあたりは本当にすぐ出てきますね。
先が長そうなのでサクサクと参りましょう。
シーズン60本塁打の伝説級助っ人から「台湾から来たサングラスのエース」へ
フルネームだとウラディミール・ラモン・バレンティン
出身はご存じオランダ領キュラソー島。
2011年にヤクルトスワローズに入団。2011年は規定最低打率で本塁打王、2012年は規定打席未到達で本塁打王と2年連続でトリッキーな活躍を見せると、2013年には王貞治の記録を超えるシーズン60本塁打を達成。
2015年のヤクルト優勝には貢献できなかったものの、その後退団する2019年まで活躍を続けます。
負けてるときはやる気ないんティンと呼ばれる無気力モードになるのはご愛敬です。
2019年オフにソフトバンクに移籍。
幸せはお金では買えないことを学び、2021年に退団。
WBCにはオランダ代表として、2013年、2017年、2023年の3大会に連続出場。
2017年には打率.615、4本塁打、12打点という素晴らしい成績で三冠王。大会最優秀外野手に輝きます。
2023年のWBCでの現役引退を発表しましたが、一週間で撤回して現在もメキシコで現役を続けております。
若い時はむしろ守備の上手い選手であったようで、本塁打を意識するようになってどんどん守備が雑になっていったようです。
マリナーズ出身でイチローとは元チームメイト。イチローからは「あのクラスの選手が日本で記録を作るなんて…」と日本のレベルの低さを嘆かれてしまいましたが、メジャー時代の実績がなんであろうとバレンティンの活躍は本物です。
好物はイグアナ料理だそうです。マジかよ。
セリーグ所属が長かったので公式でホームラン動画がなかったのですが、映像で見るとやっぱりすごいですね。
さすがに60本打ってる選手なので情報が大量に出てきますね、バレンティンのことなんてみんな知ってますのでこんな長々と書く必要もなかったかもしれません。
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それでは対戦投手を探っていきましょう。
バレンティンは2011年入団なのでその当時の外国人選手を見ていきます。
2011年はもうヌルデータの記録があるので、こちらを参照させていただきました。
中日のチェンあたりも結構長いのですが、一番長いのは西武のミンチェ(許銘傑)でしょう。
なんせ2000年デビューです。20世紀ですから。
対戦があったのは2011年5月28日。
1点ビハインドの8回にバレンティンがミンチェから珍しく三塁打を放ちましたが、次打者のホワイトセルが三振で無得点に終わり、そのまま2-3で試合は終了しました。
FA宣言しようとしたバレンティンから、外国人で唯一FA移籍をした許銘傑とつながりました。
在籍の長い外国人を遡っていけばこんな偶然もあるんですね。
それでは許銘傑から遡っていきましょう。
台湾から来たサングラスのエースから「外国人最多本塁打の最強助っ人」へ
許銘傑は2000年入団。
前年までNPBと台湾の中華職業棒球連盟の間で「台湾から選手を獲得しない」という紳士協定があったのですが、この年より撤廃されたため郭李建夫以来の台湾人助っ人として来日しました。
同じ西武入団ということで「郭泰源二世」と期待されたそうです。
(ちなみに同じタイミングで中日に入った曹竣揚は全然活躍できませんでした)
2年目の2001年には11勝を挙げるなど、2011年まで先発から中継ぎまで幅広く活躍。
2011年にセットアッパーとして大活躍すると、外国人として初めてのFA移籍でオリックスへ。オリックスでは活躍できず2年で解雇。
2014年にLamigoモンキーズに移籍、2016年に中信兄弟に移籍後引退。
2018年からは西武二軍コーチ、2021年より楽天モンキーズで投手コーチを務めています。
個人的にはロッテの小宮山と並んでサングラスのイメージが強いピッチャーですが、サングラスというより眼鏡だったんですあれは。
はい、ようやく一昔前の選手に行きついた感じがします。
2000年といえばシドニーオリンピックの年ですからね、QちゃんですよQちゃん。LOVE2000。
流行語大賞は「おっはー」とIT革命だそうです。時代を感じます。
それにしても2000年まで台湾球界との間での紳士協定があったなんて初耳でした。
それでも許銘傑が西武に移籍できたのは、許銘傑が中華職業棒球連盟と対立する台湾職業棒球大聯盟所属であったからだそうです。
しかし調べてみると、西武球団はとても褒められた行為ではないことをしていたようです。
詳しくは下記を見てください。
入団経緯はともかく許さんは日本で愛された名投手に違いはありません。
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また選手の紹介が長くなってしまいました。
遡っていきましょう。
2000年入団なのでNPBの選手検索で探していきましょう。
どうやら1995年入団のオリックスのニールが最も入団の早い外国人選手のようなのですが、残念ながら対戦が見つかりませんでした。
その次となると1996年入団の近鉄のタフィ・ローズになりますね。
こちらはしっかり対戦が見つかりました。
許の初先発が近鉄戦で、その試合でしっかりとローズにホームランを打たれて負け投手になっておりました。
なんかさっきも見ましたね、こういうの。
バレンティンに続いてすごいホームランバッターにぶち当たりました。
野手で長年在籍した選手となるとすごい実績の選手ばっかりになりますね。
それではタフィ・ローズから遡っていきましょう。
外国人最多本塁打の最強助っ人から「オリエンタルエクスプレス」へ
ローズの本名はカール・デリック・ローズ
顔面にデッドボールを受けて鼻血を流しながら試合に出ていた姿を見て監督が「タフな奴だ」と言ったことで、あだ名がタフィになり登録名をタフィ・ローズにしたのは有名な話(正式には「タフィー・ローズ」らしい)。
1986年にアストロズに入団、1993年にカブスに移籍すると1994年の開幕戦で3打席連続本塁打を放ち次代の大砲候補として期待されますが、シーズン全体では活躍できずレッドソックス移籍後に1996年に近鉄に移籍。
近鉄では長距離砲として開花し、2001年には王貞治に並ぶ55本塁打を放ちますが、ダイエー戦での敬遠攻めもあり56本を打つことはできず。
「記録をそのまま残したいのなら、それでいい」とコメントを残して球場を去ったといわれております。
敬遠は若菜コーチの指示と言われていますが、後年に本人が否定しているため真相は闇の中です。
翌年のカブレラに比べると、ローズ自身はそこまで怒りをあらわにしていません。
2004年には巨人に移籍。外国人登録から外れ、1年目には外国人最多の4度目のホームラン王を獲得しますが、2年目には首脳陣ともめて「ジャイアンツ大嫌い!」と暴言を吐くなどトラブル続きで退団。
2007年にオリックスの入団テストを受け入団。往年の打棒は衰えずに記録を打ち立て続け、2008年には打点王を獲得しますが、2009年に年俸でもめてそのまま引退。
2015年に富山サンダーバーズで突然の現役復帰。怪我でその年に2度目の引退をしますが、47歳まで現役という本当に息の長い選手でした。
464本塁打は外国人選手としては歴代最多。NPB全体でも14位に入るホームランバッターでした。
独特なバッティングフォームから放つ豪快なホームランは今でも強く記憶に残っています。
他の記録としては、14回の退場処分はNPB最多。顔が侮辱的という衝撃の退場理由をはじめ、しょっちゅうもめごとを起こしていた気がします。
急にロッテの里崎を殴り倒したり、西武の青木勇人に急に殴りかかったり暴力的な印象も強かったです。(それでもズレータに比べればだいぶマシ)
個人的にローズといえば思い浮かぶ人が一人います。
近鉄とオリックスで11シーズンにわたってパートナーを務めた藤田通訳です。
藤田さんは近鉄およびオリックスのチームスタッフなので、ローズの専属というわけではありませんが、ベンチではいつも隣にいたイメージがあります。
藤田さんが言うにはローズは「『助っ人』と呼ばれるのはいやだ。チームメートだろう」と語っていたようで、チームに打ち解けようとする意識がすごく高かったようです。
こういう発言を聞くと、堀内監督時代の巨人が大嫌いになる理由も何となくわかる気がします。
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前置きを短くしようとしてたのにまた長くなってしまいました。
本題に入りましょう。
ローズは1996年入団、ちょうどアトランタ五輪の年ですね。
有森裕子さんが「初めて自分で自分をほめたいと思います」といった年です。
この年の外国人選手だとダントツで古い選手が一人います。
先ほども名前だけ出たオリエンタルエクスプレスこと郭泰源です。(郭源治はセリーグ所属で、荘勝雄は前年に退団しています)
1996年の郭泰源は引退前年で、0勝6敗で防御率7点台という散々な成績ではあるのですが近鉄とはちゃんと対戦しておりました。
1996年5月19日に対戦。
郭泰源は先発して4回途中5失点ノックアウト、ローズはこれサヨナラ満塁ホームラン打ってますね。
かなり明暗の分かれる結果となってますが、引退間近のベテランと日本に来たばかりのノリノリの外国人ですからね。
許銘傑に続いてまたしても台湾人ですね。
やっぱり在籍期間の長い選手だと台湾人が多くなるんですねぇ。
それでは郭泰源から遡っていきましょう。
オリエンタルエクスプレスから「リー兄弟の兄」へ
郭泰源は台湾出身。
1984年のロサンゼルスオリンピックで活躍し、1985年に高校時代から見てもらっていた西武ライオンズに入団します。
1年目にいきなりノーヒットノーランを記録、9勝をあげますが肩を痛めて離脱したため惜しくも新人王は逃してしまいます。
1986年は抑えとして活躍、以降は怪我もありながら西武の先発ローテーションを支え、1991年にはMVP、1988年と1994年は最高勝率を獲得しています。
通算117勝は外国人最多(無国籍のスタルヒンを除く)、引退後は台湾に帰国。代表監督や投手コーチなどを務め、2013年14年に日本でソフトバンクホークスの投手コーチを務めたほかは台湾で指導者として活動しています。
最速156キロのストレートを持つ、通称「オリエンタルエクスプレス」
でも一番の武器はシュートとスライダーだったそうです。
同じ台湾人の中日の郭源治、ロッテの荘勝雄と3人で「二郭一荘」と呼ばれていたのは有名な話。台湾では国民的英雄とまで言われていました。
郭泰源は3人の中では唯一日本に帰化をせず、西武在籍中もずっと中華民国籍のままでした。
プロ野球もない台湾から来た自分がメジャーリーガーと同じく「外国人枠」というもので縛られることに抵抗があったようですが、日本人になるということにも抵抗があったようです。
帰化するかどうかも毎年迷っていたと引退後に語っていますし、日本に残るか台湾に帰るかもかなり迷っていたとも語っています。
郭泰源の話とは若干ズレますが、郭源治は帰化申請をするときにかなり悩んだという話です。
台湾の女優さんと結婚した郭泰源と違って、郭源治は日本人と結婚し子供も日本で生活していましたから、帰化に対する思いも違っていたのでしょう
郭源治は郭泰源と違って台湾に帰らず名古屋で台湾料理店を営んでましたから(亡くなった弟さんが料理人だったらしい)、帰化するかどうかはその後の人生にも大きく影響を与えます。
その気持ちは日本で生まれ日本で生活する僕には計り知ることができない部分です。
Wikipediaの帰化選手という項目を見ると、
などと書かれています。
実際、台湾人と結婚しながら日本に帰化した荘勝雄は帰化の際の理由としてこんな説明をしています。
金田正一監督の勧めであったとはっきり語っています。
個人的には台湾人の家族を持ち台湾で生まれ台湾で育った選手が、外国人枠などというもののためだけに国籍を変えるということが本当に起こっていたというのは少し悲しいことだと感じます。
たまたま韓国籍だっただけで日本で育って日本人の家族を持ち日本語を話す金田正一とは話が違うんですよ。
この時期すでに台湾はオリンピックの野球競技で銅メダル取ったりしてたわけで、郭源治や荘勝雄は台湾野球の発展に貢献したい気持ちはなかったのでしょうか?
まぁ本人が決めたことだし、いまさらごちゃごちゃ言うのも変なんですけどね。
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すみません、全然関係のない話をしてしまいました。
郭泰源の話でしたね。ちゃんと遡っていきましょう。
郭泰源は1985年入団なので、そのころの選手を見ていきましょう。
これは間違いなく1977年入団のレロン・リーでしょう。
郭泰源はルーキー時代から大活躍でしたので、ちゃんとロッテとも対戦しておりました。
郭泰源が完封してますね。台湾からきた23歳の若者がいきなりこんな大活躍をしたらそりゃ人気になりますわね。
リーもすでにこの時37歳ですが、まだ全然衰えてません。すごい。
全然関係ないですけど、4番の落合は三冠王の年ですね。
ご存じリー兄弟の兄の方です。
85年は弟のレオンはすでに大洋に移籍してます。
リー兄弟の兄の方から「台湾野球のパイオニア」へ
レロン・リーはカリフォルニア州出身。
1966年にセントルイス・カージナルスに入団。1972年にパドレスで打率.300、12本塁打の活躍を見せるも、日本に活躍の場を求めて1977年にロッテに移籍しました。
ロッテではいきなり34本塁打109打点でホームランと打点の二冠王。
1978年には弟レオンを招き、兄弟でロッテの中軸を支えました。
1981年以降は三冠王落合博満の前を打ち、強力な打撃陣を形成。
通算打率.320は4000打数以上のバッターとして歴代1位の成績で、今でもNPBの通算打率ランキングの一番上に君臨しています。
大活躍を見せた選手ですが、キャンプでは全くダメだったようで当初はスポーツ新聞にボロクソに書かれたのだとか。
その結果、スポーツ紙に「リーさん、ごめんなさい。ひたすら不明を恥じるだけ」という異例の謝罪文まで載ったのだとか。
なんだかほのぼのするエピソードです。
他にも西武にいた左のサイドスローの永射投手が苦手で、右投手に立ったというエピソードが『球辞苑』で紹介されてたりもしました。
何かかわいい選手ですね。
まぁ実際はどうだか知りませんが。
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リーは1977年に入団ですから、そこを調べればいいのですが
ここで困ったことが起きました。
その時代に在籍している外国人投手がほとんどいないのです。
当時は外国人枠は二人だけですし、さらに二人とも野手というケースが多く外国人投手自体かなり珍しかったようです。
レオン退団後にロッテにシャーリーという左ピッチャーが入ったのですが、同じロッテでは対戦のしようがありません。
頑張って調べたのですが、この時代にいた外国人ピッチャーが本当に一人しか見つかりませんでした。
南海ホークスにいた高英傑という選手です。
僕は全然知らなかったのですが、最初に紹介した「日本プロ野球助っ人外国人大図鑑」にインタビューも載るぐらいの選手で、台湾球界のパイオニア的な選手だそうです。
この高英傑投手と対戦があるか調べていきます。
1980年に投手として入団してますが、1981年に打者転向してるのでほぼ1年のみなのですが…
初先発登板:1980年8月17日、対ロッテオリオンズ後期10回戦(大阪球場)、5回0/3を6失点(自責点5)で敗戦投手
とWikipediaに書いてあったのでここを調べれば一発でしょう。
はい、高英傑が先発してリーは3番で出場してますので対戦してますね。
初回失点後に5回までは持ちこたえましたが、6回にボコられたようです
なんとまたまた台湾人、高英傑選手から遡っていきましょう。
台湾野球のパイオニアから「赤鬼」へ
高英傑は台湾出身。
高校時代からアメリカの国際大会などで活躍し、レッズのスカウトも来るようなスター選手でしたが、兵役義務があるため契約には至らず。
台北市立体育専科学校から合作金庫に入社後、兵役で空軍のチームでプレー。国際試合の時から声をかけてくれていた南海のスカウトの誘いで、1980年に兵役終了とともにチームメイトの李来発(高校時代はバッテリーを組んでいたようです)とともに南海と契約し入団。
1980年はまだ台湾に関する知識が薄かったようで、チームメイトは台湾がどこにあるかも知らなかったようです。
海外旅行が一般的になったのは80年代中盤以降ですし、無理もないのかもしれません。
通訳もいなかったため自分で日本語を勉強したとのことで、コミュニケーションがうまく取れないので捕手のサイン通りに投げることしかできなかったようです。
外国人枠の都合で当初は全く出番はなかったものの、王天上の退団で1年目の8月にようやく初昇格。6試合に登板し3勝1敗の成績を残しました。
しかし2年目の春キャンプで突然肘を痛め、穴吹二軍監督の勧めで打者転向。ウエスタンリーグでは打点王になるなど才能の片鱗を見せます。
ただ一軍では思うような活躍はできず、ホームランは今井雄太郎から打った1本だけと苦しみます。
さらに野手に転向したことで、唯一の話し相手だった李来発とポジションがかぶり、同時に一軍にいることがなくなってしまったのもつらかったようです。
1983年に南海を退団。
退団後は指導者になるため中京大学に今度は留学生として来日。大学卒業と同時に李来発が監督を務めるバルセロナオリンピックナショナルチームの投手コーチに就任。その後は母校で教員になり、教え子の中には王建民もいるそうです。
いやー、本当にパイオニアという感じの経歴ですね。
それまでも台湾から日本のプロ野球に入団した選手としては呉昌征など何人かいらっしゃいますが、皆さん日本統治時代に生まれた方でもともと日本国籍でした。
1945年以降生まれの台湾人としては李来発、三宅宗源とともに初のNPB選手のはずです。
台湾は1971年のアルバニア決議によって国連を追放されていますので、国際的なアピールの場としてスポーツに力を入れていたようです。
高英傑の日本球界入りもその一環だったのではないでしょうか。
それにしても通訳不在というのは想像以上に不便だったんじゃないでしょうか?当時のことはよくわかりませんが、中国語なんて香港映画に出てくるぐらいで全く通じなかったのでは…
食事も生魚が食べられず、寮の食事で出てきた刺身を味噌汁に入れて食べたりしてたみたいです。
助っ人外国人大図鑑のインタビューの最後が
「いい思い出はあまりないけど、日本に行って本当によかったと思うよ」という言葉で終わっているのが印象的でした。
最後に王建民の名前が出てくるのもいいですね。
李来発ともども結果を残したわけではありませんが、のちの台湾野球の発展には間違いなく貢献していることでしょう。
台湾は1992年のバルセロナオリンピックで日本を破り銀メダルを獲得しましたが、その時の監督が李来発、投手コーチが高英傑です。
二郭一荘の前にこんな選手がいたんですね。
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はい、それでは高英傑から遡っていきましょう。
と言っても、高英傑は残念ながら7登板しかしておりません。
この7回の登板でリーより前に入団した外国人野手と対戦していなければこの企画はこれで終了です…
なんということでしょう…
まぁ対戦してるので続くのですが
2回目の登板の8月13日に1976年入団の近鉄のチャーリー・マニエルと対戦しております。
大量リードをもらいながら5回途中で降板した名取和彦の後をついで、最後まで投げ切り、勝ち投手になっています。
マニエルはそんな高からしっかりホームランを放ってますね。
高は前述のインタビューでもマニエルが一番苦手だったと語ってます。
リーが1977年入団でマニエルが1976年入団…
高英傑を挟んでも1年しか遡ってません。
白仁天(1962年~1981年)と対戦してくれてれば一気に遡れたんですが…
残念ながら対戦は見当たらず。
何かものすごく先が長そうな気がしますが、とりあえずやっていくしかないですね。
赤鬼から「クレイジー・ライト」へ
マニエルはウエストバージニア州出身。
高校時代はバスケットボールが一番好きな種目で、大学でバスケを続けようとしていたようです。ただ高校卒業目前に父親が自殺し、遺書に母と兄弟の面倒を見るように記されていたため、進学をあきらめてMLB球団に入団したという衝撃のエピソードでMLB入り。
その後メジャーとマイナーを行ったり来たりしながらプレーを続けていましたが、そんな折に史上最低の助っ人外国人として名高いジョー・ペピトーンがヤクルトで問題を起こし退団してしまいます。これを憂慮したマーティ・キーナートの呼びかけで、マニエルがペピトーンのいたヤクルトに送られることになったそうです。
ヤクルトでは1977年に41本、1978年には39本のホームランを放ちヤクルトの日本一に貢献。しかし廣岡監督ととにかく折り合いが悪く口論が絶えなかったようです。テレビ中継で殴り合いになりそうなるシーンも映し出されていたとか。
そんな事情もあったのか、1978年12月に近鉄にトレードに出されてしまいます。
近鉄ではとにかく打ちまくるも、6月に八木沢壮六からのデッドボールで顎の骨を折る大けがをしてしまい、復帰後はアメフトのフェイスマスクをした状態でプレーする姿が話題になりました。
通称はよく興奮して顔を真っ赤にしたから「赤鬼」
悪口みたいなあだ名ですけど、強そうだからいいんですかね。
Wikipediaには『近鉄時代はホームラン数に応じてタクシーチケットを支給するという待遇をしたが、マニエルが2年連続本塁打王となる事態になって近鉄本社側が困惑した(タクシーチケット約40枚分という高額の待遇が近鉄から放出の要因)』という本当か嘘か分からないエピソードがありますが、ソースはどこなんですかね?
パチンコ好きでパチンコ店で中古の筐体買ってきて家でやってたというエピソードは検索したらソースが出てきたの多分本当です。
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いやはや、愉快な外国人ですね。
そんなマニエルから遡っていきましょう。
と言っても、先ほども書いた通りこの時代は外国人ピッチャーがほとんどいません。
マニエルがヤクルト時代に在籍していたのは巨人のクライド・ライトと中日のフレッドと大洋のブレッドぐらいです(フレッドとブレッド…)。
入団が早いのはクライド・ライトの方なので、対戦記録を見ていきましょう。
8月29日に対戦してますね。
ライトは完投、マニエルは代打で1打席立っただけですが怪我明けだったみたいです。
とんでもなく気性が荒いことからクレイジーライトのあだ名で有名な選手です。
それにしてもライトの入団は1976年なので1年も遡れていません、いつになれば70年代から脱出できるのでしょう。
クレイジー・ライトから「阪急黄金期のセカンド」へ
クライド・ライトはテネシー州出身。
1966年にメジャーデビュー。カリフォルニアエンゼルスで活躍し、1970年にはエンゼルス初のノーヒットノーランを達成。その後も二けた勝利を上げ続け、1976年に巨人に移籍するまでにメジャー100勝を達成します。
日本でも巨人軍が初めて獲得したMLB投手として3年間プレー。
普段はそんなそぶりを見せなかったそうですが、いったんスイッチが入ると激昂し暴れまわる気性の激しさで、ついたあだ名が「クレイジー・ライト」。
長嶋監督に交代を告げられると暴れだす、審判とは喧嘩する、ベンチのものを破壊する、カメラマンのカメラを叩き壊す、リポーターの帽子に放尿(!?)するなど大暴れ。
『巨人軍は紳士たれ!』という標語を無視しそのクレイジーぶりをいかんなく発揮します。
すごいピッチャー…ガルベスがかわいく見えますね。
ロバート・ホワイティング氏のコラムによると、ライトの蛮行を見て、巨人フロントは『今後巨人軍に入団する外国人選手が守るべき礼儀』を規則として定めたそうです。
それがこちら。
「ユニフォームを大切に」や「物を壊すな」や「遅刻しないこと」という基本的なこともありますが、注目は「9.シーズン中に帰国しないこと」ですかね。
今年シーズン中どころか、シーズン開幕前に辞めた選手がいましたしね。
一応シーズン中の無断帰国ではなく解雇なので、厳密にいうと違反してないのかもしれませんが…震災の年に無断帰国したまま帰ってこなかったバニスターは完全に違反してますけど。
ちなみにこのクライド・ライトも1978年のシーズン中に退団しそのまま引退しています。
まぁMLBとNPBと間に大きな壁があった時代の話です。
ライトは引退後に野球に関する著書の多い慶應大学名誉教授の池井優氏の取材に答えているのですが、そこでもなかなか日本野球に対して挑発的なことを語っています。
日本野球に合う外国人選手の条件を聞かれて「日本に行く外国人選手へたった一つアドバイスがあるとすれば"行かないこと"だ」と言い切っていたりします。
さらに黄色いコルトに乗りながら「日本に関するものでいいものはこれだけさ」と言いながら去っていったのだとか。
ここまで日本を嫌ってくれると逆に気持ちいいですわ。これを目の前で言われた池井さんは最悪の気分だったと思いますけど。
中身のない適当な親日発言聞くよりは正直で好きです。三菱コルトだけ認めてるのも異様にリアルだし。
ちなみに池井さんの本によると、引退後は一時期アルコール中毒で入院などもしていたようです。
その後は実業家として成功し、現在はエンゼルスの職員として働いています。
日本嫌いは今はそうでもないようで、割と日本のメディアにも出てきてます。
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なかなかパンチのある外国人でしたが、それでは対戦相手を遡っていきましょう。
ライトの入団は1976年、この時代の外国人で最も入団が早いのは1972年入団の大洋のシピンのようです。
Wikipediaには
・初登板・初先発登板・初勝利・初先発勝利:1976年5月29日、対大洋ホエールズ11回戦(後楽園球場)、5回2/3を2失点
・初奪三振:同上、1回表にジョン・シピンから
と書いてあるので、間違いなく対戦しています。
この試合ですね。
前述のとおりライトは初先発初勝利ですが、シピンは2三振でいいところなしだったようです。
それでは、ライオン丸ことジョン・シピンから遡っていきましょう。
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ごめんなさい、これ無理なんです。
シピンは1972年入団なんですが、1970年代前半にセリーグに在籍していた外国人投手が本当に一人もいないんです…
パリーグには何人かいるのですが、シピンは一度も日本シリーズに出場していないのでパリーグの投手とも対戦していません…
これではどうしようもありません。
一度ライトに戻って、どうにかしてパリーグに切り替えるしかありません。
幸いなことにライトが所属していた巨人は1977年に日本シリーズで阪急と対戦しています。
この時にライトの登板があって、外国人との対戦がなければこの企画は大幅な路線変更を強いられます…
対戦してました。
まぁタイトルで「阪急黄金期のセカンドへ」って書いてるから若干ネタバレはしてたんですが、
そうです、ボビー・マルカーノと対戦しております。
見ての通りマルカーノと同時期に阪急にいたバーニー・ウイリアムス(notヤンキース)とも対戦はしてるんですが、個人的にマルカーノの方が好きなのでマルカーノで遡らせていただきます。
同じ1975年入団なんでマジでどっちでもいいんですが。
本当に何とか対戦記録をつなげていっている状態です。
77年レオン
80年高英傑
76年マニエル
76年ライト
75年マルカーノ
5人で4年しか遡ってません。どんだけ牛歩なんだよ。
次こそは70年代から脱出できると信じてマルカーノから遡っていきましょう。
阪急黄金期のセカンドから「初登板1イニング3ボークの投手」へ
ボビー・マルカーノはベネズエラ出身。
ベネズエラのプロ球団からシンシナティ・レッズに移籍。マイナーリーグでプレーしていたところ、阪急上田監督の熱烈なオファーを受けバーニー・ウイリアムス(notヤンキース)とともに1975年に阪急ブレーブスに入団。
メジャー志向の強いマルカーノは日本行きを迷ったそうですが、球団から「メキシカンリーグに行くか日本のブレーブスに行くか、どちらかに決めろ」と迫られたことで、日本行きを決めたそうです。
年俸が3Aの倍以上の額となる750万円というのもきっかけの一つになったようです。
1年目から二塁手として大活躍で1978年に打点王、ベストナイン4回。阪急のパリーグ4連覇にも貢献し、1983年にヤクルトに移籍した後も活躍を続け1985年に引退するまで活躍を続けました。
日本移籍後もウインターリーグに参加するなどメジャーの夢をあきらめていなかったようですが、1977年の目の怪我でメジャー行きをあきらめたそうです。
引退後は巨人のスカウトに転向、サンチェの通訳として来日したこともあったそうです。
どうもマルカーノはメジャー経験がなかった分メジャー志向が強かったみたいです。
当時のベネズエラはオイルショックによる原油高でかなり豊かな国であったようですが貧富の差が激しく、今と変わらずメジャーでアメリカンドリームをつかもうとする若者は多かったようです。
マルカーノもベネズエラの英雄ルイス・アパリシオにあこがれていたという話もありますし、ベネズエラで野球をやるということはメジャーを目指すということだったのでしょう(今でもそうだと思いますけど)。
ちなみに真面目な性格で日本人に愛されたマルカーノですが、
『ルーツが日本にある』と話題になったことがあったようです。
1977年頃にマルカーノがとある記者に「私のひいじいさんは日本人。姓はトモウラ。ペルーからサーカス団としてベネズエラに来た。親戚がいるなら話してみたい」と話していたことで、新聞の記事になったことがあったそうです。
そのことをきっかけに京都在住の作家・藤井薫さんが調査を始め、マルカーノの曽祖父であるフランクリーノ・トモウラが天草の出身であると結論付けたのだと。
詳しくはこちらの本に書かれています。
国会図書館に行かないと読めない可能性ありますが
日本にルーツがあるからってベネズエラ人に対して「誇り高き日本人」というタイトルはどうかと思いますが、こういうこと調べ上げる根性はすさまじいと思います。
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それではマルカーノから遡っていきましょう。
マルカーノは1975年入団なのですが、パリーグには1975年に在籍していた外国人投手が二人だけいました。
1974年入団のテリー・レイと1975年の後期だけ在籍していたジョージ・カルバー(どちらも日本ハム)です。
すみません、どちらも全然知らない選手なんですが
とりあえず先に入団したレイと対戦があるか調査していきましょう。
してました。
レイはかなり不安定な内容ながら4回2失点。マルカーノは1安打だけ打ってますが、打率.158とこの時点ではあまり打ててなかったんですね。
このテリー・レイ選手、検索してもヤンキース時代の写真のストックフォトしか出てきませんでしたので、『助っ人外国人大図鑑』の写真を貼ってます。
今までは割と有名な選手ばかりでしたが、これはかなりのマイナー選手と言えるのではないでしょうか…
まぁでも僕が知らないだけで実は有名な選手なのかもしれませんし、あまりマイナーというのもよくありませんね。
レイから遡っていきましょう。
1イニング3ボークの選手から「韓国から来た挑戦者」へ
テリー・レイはオレゴン州出身。
1971年にヤンキースでメジャーデビュー。
1974年の後期、入団テストに合格したのに最初の給料だけもらって失踪したバール・スノーの代わりの選手として、メジャーで活躍していたマイク・ケキッチとともに日本ハムに入団。
初登板でいきなり1イニング3ボークの日本記録を樹立。
1975年も残留するも、野村克也に600号本塁打を打たれるなど大した活躍はできず前期限りで解雇されました。
タイトルにも書いてますけど、今でも1イニング3ボークの記録に名前を残す投手です。
こんな記録でも名前が残るというのはすごいことです。
入団のきっかけとなった無期限失格選手のスノー(貿易会社社員)はかなり有名な選手ですが、レイはもう情報自体ほとんど出てきません。
wikiもそれなりに記述はありますが、全然出典がないのでどこの情報かもわかりません。ケキッチの方はまだ情報出てくるんですけどね。
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あんまり書けることもないので早速遡っていきましょう。
レイの時代の外国人野手は結構豊富なのですが、この時代は一人だけやたらNPBで過ごした期間が長い外国人が一人存在します。高英傑の時にちょろっと書いた1962年に東映フライヤーズに入団した白仁天です。
当時の規則により日本人登録で入団しているのですが、完全なる韓国人です。最初に書いた通りここでは外国人として扱います。
白仁天は1974年までレイと同じ日本ハムに在籍していたのですが、1975年に太平洋クラブライオンズに移籍しております。
1975年の記録を見ていきましょう。
開幕3戦目の4月6日に対戦しておりました。
白は7番センタースタメン、レイは5回5失点と炎上してますね。
ようやく1970年代から脱出!!!
しかも1963年まで遡ることに成功しました…
長かった…
白仁天との対戦がなくても1968年入団のアルトマンまでは遡れていたみたいです。ありがとうテリー・レイ。
ここまでくればゴールは近そうです。
2万字を超えてきたので次回に続きます
1970年代を脱出できたばかりですが、すみません一旦ここで終了とさせていただきます!
あと数人で終わるのですが、2万字を超えてきたことと
この後の人たちの人物の人生が面白すぎてものすごい長文になってしまいそうで、いったん切らないと全体で文庫本一冊ぐらいの文字数になりそうなので…
まず次の白仁天が面白いですからね。
帰化問題とかには触れる気なかったし、マルカーノの本も借りて読む気もなかったんですが、やりだしたら止まらなくなってきてしまいました。
高英傑やクレイジーライトのエピソードは有名なのかもしれませんが僕自身は全然知りませんでしたから。
多分来週ぐらいに後半を出せると思いますのでよろしくお願いいたします。
ここまでの感想と有料のおまけ
ここまで全部無料なのですが、すごく頑張ったので最後に有料のおまけをつけておきます。
ここまで調べたうえでのそれぞれの選手の感想と、削除したエピソードです。
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