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2022年9月、フィッシュマンズを観た。

2022年9月11日。
秩父ミューズパークでフィッシュマンズのライブを観た。
初めて、フィッシュマンズのライブを観た。

この記事を書いているのはその翌日の2022年9月12日。
リカバリーにスポットを当てた一日を過ごした締めとして、今のうちに感想を残しておこうと思いスパの休憩所でこれを書いている。

wind parade ’22というイベント。
とても素晴らしかった。

このイベント全体の感想について書くと、本当に書きたいことが薄まってしまう気がしてならないので、ライブレポートというよりは私がフィッシュマンズを観たというひとつの事実にフォーカスして書き残していく。
そのため、細かいセットリスト等の情報は省くのでご承知おきいただきたい。



当日のタイムテーブルは案内通りつつがなく進行されており、18:10からフィッシュマンズの演奏が始まった。
とはいえ1ステージでのイベントということもあり、転換時間の音出しの時点で演奏をたのしめていた。
土曜日の夜で音を合わせる彼らのグルーヴを事前に味わい、勝手にへんな緊張感を持ちながら18:10のその時を心待ちにしていた。
柏原譲が奏でる地を這うようなベースラインに唸りながら、暑さと緊張で渇いた喉を湿らすために、ぬるくなった麦茶を呷る。

この日の日没は17:55。
晴れた日の夕暮れ時。
日が落ちて次第に暗くなっていく秩父の丘で。
フィッシュマンズが雄大に音楽を奏でる。
それを芝生の上で聴く。

場合によっては捕まるくらいに贅沢な体験だ。
これを取り締まる法律が今のところなくて安心している。

彼らのライブはGo Go Round This World!で幕を開けた。お馴染みのリフで展開されていくこの曲で観客のシルエットもゆらゆらと揺れ始めた。秩父の神が降臨するのではないかという神聖さを感じる演奏風景に恐れ入りながらも音に身を委ねた。気持ちいいけど怖い。そんな不思議な体験をした。マジックを呼ぶ音楽がそこでは奏でられていた。

正直なところ、期待値の高さ故にフィッシュマンズを観るのが怖かった。
今のフィッシュマンズのライブを観て仮に期待値を下回ったとしても、それが原因で好きでいられなくなるということはないだろうが。
夢は夢のままにしておこうか悩んだが、そんな悩みを吹き飛ばす極上の体験ができた。
頭をからっぽにして音に身を委ねればいい。
フィッシュマンズは私を頭でっかちのままでは居させてはくれなかった。

自分の生まれ年と同じ1993年にリリースされたいかれたBabyに心を揺さぶられる。29年間、人の心の支えになったり、人生の大事な場面であとを押してくれたりしてきたのだろう。そんなことを想像したらざわざわと鳥肌が立った。

折坂悠太、くるり(岸田繁)、カネコアヤノ。
対バンのボーカル陣とのセッションもあった。
彼ら3人が歌ったナイトクルージングはもちろんのこと、カネコアヤノが歌うWALKING IN THE RHYTHMがとにかく素晴らしかった。ブレイク後のアレンジはおどろおどろしさを感じる仕上がりだった。

ライブのラストを飾ったのはSEASONだった。時間的にLONG SEASONは出来ないだろうと思っていたが、SEASONをやってくれた。フィッシュマンズではこの曲の詞がいちばん好きだ。
儚さはそのままに、やさしさを増したその曲をただ噛み締めて聴いた。
余韻に浸っている人が多くいたが、私は早々に満足して帰りのシャトルバスの列へ急いだ。(立ち尽くしていたい気持ちは分かるがなるべく快適に帰宅したかった。)

このライブを通して涙を流すことはなかった。
それはきっと、残された彼らがあくまでも彼らのためにやっていたからだと思う。
感動的かどうかという感情の揺れとはまた別の話だ。感動はしている。当然のように。
私には涙を流す必要がなかった。
これはいいこととして受け入れている。

押し付けや脚色のない、純粋なもの。
いいものをいいものとして額面通りそのまま届ける。伝える。
想像の話ではあるが、私はそう感じた。そう受け取った。

ただただ自分のためにnoteに妻の闘病記を書いている私にとって、フィッシュマンズから感じたそのような姿勢はとても頼もしくそして美しく映った。
ひとつの指標として。
形は違えど残されたもののひとりとして。

妻の一周忌を控えたこの2022年9月に。
この気持ちで、この精神状態で、あなた達のライブを観られて本当によかった。
ありがとう、フィッシュマンズ。

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nakanoryo
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